●●●諏訪大社上社では大祝(おうほうり)が生き神とされ、代々、守矢家が引き継いだ●●●
前回訪問した諏訪大社上社本宮と前宮の近くに、神長官守矢(じんちょうかんもりや)史料館がある。これはなんだ? 興味を覚え、上社本宮の帰路に訪ねてみた。守矢家の家伝では、丁未の乱(ていびのらん・587年/神道派の物部守屋(もののべもりや)が仏教派の蘇我馬子に敗れ、滅亡する)の後に諏訪に逃亡した物部守屋の次男・武麿がこの守矢家に養子入りしたとされている。上社の御神体が守屋山であり、その神官の最高権威=神長官が守矢氏と、モリヤ、モリヤと響きが同じで、なにかつながっている印象を受ける。前回にも紹介したが、イスラエルのエルサレムにもモリヤ山がある。
守矢家は上社の神官の大元締め神長官として明治時代まで世襲で千年以上、神長官を勤めた。1991年(平成3年)、その敷地内に守矢史料館は開設された。鎌倉時代より守矢家で伝えてきた守矢文書を保管・公開するのが目的だった。守矢文書とは県宝155点・茅野市指定文化財50点を含む総点数1618点の古文書である。諏訪大社の祭礼に関する古文書がほとんどだが、なかには中世の信濃国の様子を克明に記録したものがあり、一級品の歴史史料といっても過言ではない。武田信玄の書状がもっとも多く保存されている。武田信玄の死後、遺体は諏訪湖に沈められたとの伝説があるが、武田信玄と諏訪大社との強い結びつきを示す物証といえそうだ。
写真のように、史料館は変わった形をしている。基本設計は、郷里出身で建築史が専門の藤森照信東京大学名誉教授が行った。藤森氏は諏訪の建造物の特徴や中世の信仰のイメージを取り入れ、新たな発想の史料館の建築を目指したという。屋根には地元の「鉄平石」といわれる平石と天然スレートを載せている。縄文時代には屋根を泥でふいたそうだが、それを彷彿とさせるものがある。
展示室内に入ると、諏訪大社で行われる御頭祭(おんとうさい)で供えられた鹿やウサギの神饌(しんせん)の再現展示が眼に入ってくる。奥には、武田信玄の古文書を中心にした守矢文書や、鉄鐸(てったく)、古墳からの出土品の展示をしている。御頭祭は御柱祭と同様に重要とされていた。江戸時代までは本物の鹿の頭75個が使われいたが、ここでは鹿の頭の剥製が展示されている。
史料館から南西数十mの場所に、御左口(ミシャグジ)神社=御頭御社宮司総社=が建っている。縄文時代より中部地方に広がる御左口神信仰の中枢とされる。社叢は茅野市指定天然記念物となっていて、古来よりの木々が生い茂っていた。また、近くに神長官が祈りを捧げたとされる祈祷殿も残っている。明治維新にいたるまで神長官が受け継いでいた子相伝の事柄(神事の秘法、一族の系譜など)は真夜中、火の気のない祈祷殿の中で口移しで伝授されたという。この口伝という手法は、いまも出雲大社で行われていることで有名。他人に知られたくない秘密や恨みを、文字のなかった古代より言い伝えている風習である。果たしてその内容は?
まさに諏訪信仰の中核をなすエリア。大社が造られる以前の世界を覗いたようで、不思議な感覚をおぼえた。