新・信州人倶楽部メールマガジン
    第153号

発行:新・信州人倶楽部 事務


〜信州からの便り〜 2022年10月号

 2022年10月15日発行
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 こんにちは。「信州からの便り」第153号をお届けします。

 10月に入り涼しくなり、朝の気温は10℃くらいの日が多くなり、日中は20℃を少し超える過ごしやすい気候になりました。
 私が契約している松川村の農家でも新米になり、いよいよ収穫の秋になってきました。

 それでは今号もいくつかの話題をどうぞ。


 

信州漫遊記(第28回)

髙藤 惇(松本市)

松本城の歴史(2) 武田信玄・勝頼は深志城に32年間君臨、特徴は「丸馬出」
 〜信州歴史フォーラム「松本城はじめて物語」(宮島義和)より〜

 武田信玄(晴信)は天文11年(1542)に諏訪郡を統一した諏訪頼重を攻め破る。翌年には上原城を修築し、板垣信方を在城させ、塩尻峠ひとつを境として府中(松本)に近づいてきた。信玄は天文14年(1545)7月18日に塩尻峠(勝弦峠)に配備していた小笠原長時軍を攻撃し、勝利する。いよいよ信玄の松本平侵攻だが、そのためには松本平に侵攻基地が必要になる。現松本市村井の村井城(小屋城)を普請させ、ここを小笠原攻めの本拠とする。

 ついに天文19年(1550)信玄は松本平に侵攻する。すると、林城・深志城・岡田(伊深城)・桐原城・埴原城・犬甘城といった小笠原の支城は戦うことなく落城(自落)。小笠原長時の居城、林城も自落する。長時は戦わずして逃走し、信濃を追われる。家臣たちの多くは武田信玄に従うことになった。

 武田家は古くから甲斐国全域を支配する守護だった。小笠原家もその勢力範囲は筑摩郡・安曇郡に限られていたが、信濃守護を勤める家柄だった。その末裔である信玄と長時は敵対関係となるが、実は先祖を同じにする「甲斐源氏」一族なのである。甲斐源氏を称する義清の息子、清光から加賀美遠光系と武田信義系に分かれ、遠光の子である長清が初めて小笠原を名乗る。つまり非常に近い親戚関係だったのである。もし武田と小笠原が手を結んでいたら世の中はどうなっていたか分からない。が、小笠原は室町将軍との関係や小笠原流の相伝者を自負して、常に武田を一段下に見下す傾向があった。
 
 信玄は小笠原の本拠であった林城には目もくれず、平城の深志城を修築して府中の支配、さらには北信濃進出のための拠点とする。深志城がどのような城であったか、考えるネタがあるとすると「馬出」でであろう。
 下記に掲載した「図1」は享保13年(1728)に描かれた松本城の縄張で、信玄の頃からこのような城郭になっていたとする説がある。証拠としてあげられるのがA〜Dの丸で囲んだ部分。松本城本丸を囲む堀のうち一番外側に掘られた総堀だ。そこには全部で5つの出入り口(虎口)があった。一番南側の虎口は大手門。大手門をのぞく4つの虎口には馬出がある。

 馬出とは虎口の正面に半円形や角形の堀を掘り、土塁を設けて虎口が隠す曲輪。丸馬出は武田氏特有のものと考えられてきた。確かに松本城の4つの馬出の内3つは完全な丸馬出である。これが深志城の普請の時に武田によって築造された名残りといわれる。であれば、武田時代の深志城は近世城郭の松本城と同じ規模だったことになる。

 これに対して、中世のままの城郭の形が江戸時代を通して維持された可能性はないとして、深志城は松本城とは異なる規模や形で、堀も2重であったとする説もある。新府城は韮崎に武田勝頼の時代に築造された。その想定復元図を見ると、大手門が丸馬出となっていた。このように丸馬出は武田による築城と捉えられてきた。しかし、最近は徳川も丸馬出を築造していたことが指摘されるようになった。最近の研究では、近世城郭について、幕藩体制下では譜代大名の城に馬出が造られ、ほぼ近世全般を通じて普請されたことが分かってきた。はたして松本城の馬出は武田の普請によるものか?

 武田は勝頼の代で滅亡するまでの32年間、深志城に城主・在城衆・普請奉行を置いて君臨していた。深志城時代に、武田式の丸馬出などの実戦に適した普請が行われたことは確かだろう。



図1 享保13年頃の松本城下絵図。○で囲んだ4つの虎口には馬出がある



図2 丸馬出の略図。半円形や角形の堀を掘り、土塁を設けて虎口を隠す



図3 松本城東門の馬出。出陣のさいに、外部から見えないように築造



図4 勝頼によって韮崎に造られた新府城には、武田特徴の丸馬出がある


 

畑の様子

中澤 滋(松本市)

 サツマイモは苗を植えてから130日が標準的な集荷首なので、少し遅れて10月初旬に収穫しました。すると十分な大きさのイモは一株に1、2個とあまり出来ていません。中には通路に敷いた除草シートの下まで潜り込んでいるものが10個以上あり、かなり大きなものも混ざっていました。それでも全体18株のうち、20cm以上の良いイモが30個ほどあったので良しとしましょう。
  考えてみたのですが今年は夏前後に極端に雨の降らない時期があり、そのせいで株元のマルチの下が乾燥してしまい、サツマイモの根が水を求めて透水性の除草シートの下まで伸びたのだと思います。おかげで通路下のカチカチの土を掘り起こすのが
大変でした。

 10月も半ばになると、キュウリは収穫が終わり、ズッキーニも終わりで種用に残した巨大なものだけが残っています。オクラもそろそろ終わりで、今収穫出来るのはトマトとインゲンのわずかな量ですが、霜が降りたら終わりになります。

 ササゲ豆の一部が黒褐色から薄い茶色に乾燥してきたので、少しずつ収穫していますが、長雨のせいか表面がカビ状のものも多く、中にイモムシが入っているものも。あまり収穫に期待できません。
 キクイモは花がそろそろ終わりのようで、来月から収穫を勧め年内に全て掘り出したいと思います。


 

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 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 次回もどうぞ楽しみにしてください。