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新・信州人倶楽部


▲▲▲ 新・信州人倶楽部報 ▲▲▲



第16号

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〜日記という歴史〜


Y.M.

 西暦2000年という節目に、「よし!日記をつけよう」と決心された方もいらっしゃると思います。新年の気持ちをそのままに、予定通り続いていますか?

「はい、もちろんです」と、きっぱり返事されたAさん。すごい。1、2年後…いいえ10年後には、思いもかけなかった宝物を手にされるでしょう。

 「ウウン、半月前までは順調に書いていたのだけど、最近はちょっと…」と頭をかいているBさん。ここで諦めないでください。空白欄に日付と曜日を書きます。カレンダーなどを頼りに、今日までを跡切れることなく書き込めば、また新たな気持ちで再スタートできます。

 「1月10日や15日の日付はあるけれど、2月の日付は、書いたことがない」というCさん。ちょっと大変ですが、人生はまだまだこれからです。一日がかりの大仕事になりそうですが、勇気を出して日記の大手術をしてみませんか。これが成功すれば、大きな満足感を味わえると思います。

 まずBさん同様、空白欄に跡切れなく日付と曜日を書き込みます。そして、カレンダー・手帳・予定表などを見ながら、行事、出来事、感じたことなど、日付を思い出しながら書きます。思いがけなく届いた友人からの頼りを、縮小コピーして張り付けてもいい記憶になります。どうしても思い出せない日は、とばして次の日に移りましょう。
 一通り終わりましたら、今度は新聞や雑誌の出番です。空白のままになっている日付の新聞(雑誌)を取り出し、「これは…」と思う記事と自分の感想を書きます。ここまでくると、空白はかなり埋め込まれたでしょう。残りの空白日付には、読書後の感想・写真・チケットの半券・(自分で書いた)イラスト・スケッチなど書き込めば、一日も跡切れることのない日記になります。そして、今日からまた、決心も新たにスタートできます。



 読売新聞(H12.1.23付)に、ある女性の日記の記事がありました。江戸末期から明治の始めに、紀州で70年近く日記を書き続けた川合小梅さん。内容には、ぐちらしいものはなく、身辺記事から政治、経済、歴史、外国事情まで、社会の出来事を女性の視点でとらえています。この小梅日記は日本史の一部として、外国にも紹介されているそうです。

 私は、平成9年から『3年日記』(平成9,10,11年用)をつけています。末期癌の父が、余命半年と診断されたことが、日記を書き始めるきっかけでした。前記のBさんCさんは、まぎれもなく私自身なのです。半日がかりで、その日までの空白を埋める作業もしました。今年は2冊目の『3年日記』(平成12,13,14年用)です。そしてだんだんAさんに近づいています。もちろん私の記憶は、先の『小梅日記』とは比べものにはなりません。が、私自身の歴史は創れると、自負しています。
 ただ、後で読み返したとき不愉快になるようなことは、書かないようにと決めました。どうしても書くことが見つからない日は、新聞のコラムを書き写したり、イラストを描くこともあります。写真を貼り付けてもいいではありませんか。自分なりの方法で日記を楽しめば、文章だけにこだわらなくてもいいと思います。

 少しのことを毎日記録し、それを長く続けるということは、簡単なことではありません。誰かに命令されているわけではないので、1日怠けても誰も何も言いません。まさに自分の、怠け心との戦いです。正直、書くのも面倒でやめてしまいたくなることもあります。そんな日は「書くのは面倒。こんな日記やめてしまいたい!」と、その日の気持ちそのままに。それもまた、紛れもない自分の心の歴史だと思います。  平成12年 春


〜身近な山歩き〜

M.S.

“八方尾根”

 私がここを最初に訪れたのは、昭和32年1月のことだった。現在のゴンドラ“イブ”は、その何年か前に架設されたばかりの頃で、スキー人口もまだ数えるほどだったと思うが、それでも流石にスキーのメッカだけあって正月のゴンドラ利用者は長蛇の列をつくっていたのを覚えている。

 

時が経ち、30年ぶりに(昭和62年4月)春スキーを楽しむため、そこを訪れたとき、あまりの変化の大きさに唖然としたものである。素朴な民宿が大勢をしめていた白馬村は、赤や黄色の原色で塗り込められた映画のセットのようなロッジが、目白押しとなって建ち並んでいたのである。

 ゴンドラに乗って兎平に着くと、そこには大きなレストランができていて、色とりどりのスキーウェアを身につけた若い人たちが楽しく談笑していた。50代の人は我々夫婦のみで、なんだか別の世界に入り込んだような気がして、コーヒーだけを飲んで、早々にゲレンデへ逃げ出したものである。その印象が強くて、穂高町へ移転してからは、スキーは専ら近くの鹿島槍か爺ガ岳スキー場に通っている。
さて、山としての八方尾根だが、春の残雪期から11月上旬の新雪期にかけては、手軽にアルペン的気分が味わえる場所として自信を持っておすすめできるところである。

 今では、ゴンドラの終点の上に、さらに2本のリフトが架設されていて、これを利用すれば、登高時間はわずか2時間弱で標高2,086mの八方池に達することができる。ここからは、すぐ右手眼前に白馬三山の巨大な山容を望めるが、できれば夏の喧騒をさけて、秋10月の人気が少なくなってからが見頃である。運が良ければ新雪の清々しい景色を目にすることができるかもしれない。

 話は前後するが、このルートの景観の良いところは、2本目のリフトの終点から30分ほど尾根道を登ったところにある。向かって右側には白馬三山が益々近くに迫ってくるが、左側に目を転ずれば、そこには鹿島槍と五竜岳が重量感あふれる姿を見せてくれるはずである。特に、この位置からの鹿島槍の形は、北アルプスでも数少ない格調高いもので、私が四季を通じて撮影に通いつめているポイントでもある。平成10年3月の早朝、厳寒の中で真紅に染まるこの山稜を見事にカメラにとらえたことは忘れられない。
いずれにしても、最も手軽に、しかも安全に北アルプスの魅力を堪能できる場所である。安曇野の住人としては、一度は行っておきたいところといえよう。

<参考資料>
・ゴンドラは通年営業。ただし、登山目的では5月〜11月に。
・駐車場は周辺に多数あり。
・リフトの終点に通年営業の山小屋(八方池山荘)あり。




第13回例会(総会)の案内


〜おいしい味を、少し〜

中澤 滋

 食べることは昔から好きでしたので、20代の頃から「東京いい店うまい店」(文芸春秋編)に掲載された店を参考に、限られた給料の中から美味しいお店を訪ね歩いていました。そのころはまだ雑誌「ピア」などなく、音楽・演劇情報の「シティーロード」なる雑誌が刊行されたばかりの頃でした。しかし、少ないけれども期待を裏切らないお店の情報が多かったように記憶しています。

 最近では、グルメブームのおかげで情報量は多いものの、信頼できる情報(自分に適した情報)は限られてしまうようです。信州に来てからも、いいお店を探し歩いたのですが、まだこちらに移住する前の年のことが思い起こされます。松本の高級レストラン鯛萬が出店している和食のお店(鯛めし)で昼食を食べたのですが、夏の季節で無理に出さなくていいのに、臭いのするマグロの刺身を出されたのがショックで、しばらくは「この地方の食文化の貧しさ」と誤解する時期がありました。一番悔しいのは「二度と行かない」と心に誓ういくつかの店がいまだに存続し、中にはいつも新聞広告を出している店があることです。「その味で満足」とする客が多いのでしょうか、残念でなりません。

 松本周辺では塩味のきつい店が多いのですが、つぶつぶの塩が舌に残った中華料理店にはびっくり。このときは作り直してもらいましたが、それでも大して変わらなくて二度びっくり。オーナーシェフが、「ステーキには白ワインが最高」といい、赤ワインを置かなかったステーキハウスなど、いろいろ思い起こされてしまいます。
 悪口はきりがないのでこれくらいにしますが、味覚には相対的な要素も多く個人差も大きいので、「絶対!」というのも無理があるでしょう。それでも禁煙席がなく、たばこの煙が漂うレストランで「美味しい食事を味わうことは無理」というのは明白な事実だと思います。客に対する気配りのない店では「美味しい食事は出てくるはずがない」と考えるのが正しい選択でしょう。できれば客に美味しく食事をしていただくことに誇りを持つような、そんな店で食事をしたいものです。

 さて前置きがずいぶん長くなりましたが、今号からは、偏見かもしれない私的な“おいしい味”を、最近の体験を中心に紹介していきたいと思います。

開運堂の栗萬
 「はなびら餅」の響きの良さと味から、なぜか突然和菓子に目覚め、松本周辺では有名な和菓子の開運堂をのぞくようになりました。季節ごとに変わる品揃えも楽しく、1個から買えるものも多く、夫婦2人で2個の和菓子を買うこともあります。
 ここの栗萬は少し値段が高いのですが(6個入りで1,280円)、適度に柔らかく香ばしい薄皮と、品のいい素直な味と食感の栗あんが美味しい和菓子です。これならちょっと大事な人にもお勧めできるでしょう。

 開運堂ですが、本店を立派にした頃(2002年頃?)から味が落ちてきたようです。何かつまらない味、素材の美味しさが失われているようです。餡ものなどは特に顕著で、味を殺してまでの効率・コスト優先主義になったのでしょうか。残念です。



編集人から

 梓川流域のケショウヤナギは、真冬の今が一番美しく小枝が真紅に染まっています。98年の台風と99年の大水で群落がずいぶん流失しましたが、それでも新しい群落が出来つつあります。何年かに一度洪水が起きると、今まで埋もれていた土壌の中から昔の種が表に出てきて発芽し、若い木の群落に更新するとのことです。
 先日のことですが、波田町側から河原におりてケショウヤナギを見ていると、水面に魚のはねるのをいくつも見ました。「結構魚がいるんだな」と思っていたら、突然カワセミのダイビング。すぐ目の前の枝にいたのです。失敗したカワセミはそれでも10分くらい水面を凝視し獲物を狙っていましたが、結局あきらめて上流へ飛んでいきました。ちょっと得した時間でした。

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