Iターンネットワーク

新・信州人倶楽部


▲▲▲ 新・信州人倶楽部報 ▲▲▲



第50号

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〜信州人になって9年〜


白石 正則


 私は1939年、大阪で生まれて今年66歳になります。1963年にインテリア関連の仕事につき、1995年6月まで32年間勤めましたが、その間何度かの転勤があり、最初は71年から77年までの松本勤務でした。 松本の冬は今とは比べものにならない位寒く、道路事情も悪い中、県内をくまなく営業活動していました。

 そんな信州での暮らしの中で、豊かな自然の中で目をきらきらさせて、虫取りや砦ごっこに夢中になっている子供たちをみていると、寒ささえ我慢できれば住むには悪くないところだと思うようになっていました。

 その後広島、岡山等々、いくつかの地で生活し、役職定年で57歳で退職しましたが、当時まだリストラという言葉さえなかったかと思います。
それから住宅ローンをかかえて生まれ故郷の大阪で仕事を探すことになりましたが、今まで会社の看板や肩書きで仕事が出来ていたのが、自分の能力だと勘違いしていたことを気づかされることになりました。大いに反省しましたが、思うような仕事はなかなか見つかるものではありません。

 そんな折、松本勤務時代の顧客だった社長から「松本でそれなりに面倒をみるから来ないか」と誘われ 家族と相談の上(子供たちも独立していましたので)お話を受けることにしました。

 同じ行くのなら家を処分し退路を絶ってと、北アルプス、特に常念岳がよく見えるところという事で、96年に豊科町(現安曇野市)に居をかまえ再び信州人になり、おかげでローンのない身軽な生活が出来るようになったのです。

 ところが少し時間がたつと「給料分働いていない」、という陰口が聞こえてきました。それでも自分では給料が安いと思っていて、「ここは信州だから物差しが違うのは仕方がない」と…。そんなことから結局一年あまりで円満退職ということになりました。

 それから、またハローワーク(職安)通いが始まりました。まだ年金を貰うまで2年、これからが大変という気持ちで探したのですが、一番の障害は年齢でした。ハローワークの紹介にもかかわらず、100万円出資すれば課長職で採用するという詐欺まがいのいい加減な会社もありました。年金がもらえるまでは、どんな仕事でもと思いながら条件のいい職を探しましたが、営業ですので当然成果をすぐ求められる仕事がほとんどでした。

 そんな中でも根が楽天家なので、この時とばかり信州を満喫しようと北は秋山郷から南は昼神温泉まで朝起きたとき晴れていたら、即、出かけていたのです。私の家は信州のほぼ真ん中で、1時間30分もあれば県内どこへでも行けます。少し無理をすれば東京、名古屋、金沢、新潟など日帰りも出来ますから本当によく出かけたものです。

 結局仕事は知人の紹介で、下水道の営業の職を得ました。
 そこでの最初の3カ月は何も分からず成果も上がりませんでしたが、会社はよく辛抱して下さったと今も感謝しています。資格が必要でしたが、受験資格が無いのにもかかわらず受験し、運良く通りました。職場の仲間と受験勉強をしたことも、今ではなつかしい思い出になりました。私は変なプライド(昔の勤め)を捨て切れずに苦労をしましたが、それでも固定給でしたので助かりました。

 それから数年後、年金が貰える60歳になり、たまたま社長が交代したこともあってその会社を退社したのです。
 ところが「年金があるからと安心?」、それが間違いだったのです。
確かに生きてはいけますが、年金だけでは生活に張り合いがありません。それと結構お金、特に社会保険や税金、車の諸費用、交際費や小さな家ですがそれなりの固定費などもかかります。今、年金問題が大きな話題になっておりますが、高齢化の時代、一生涯の保証はどうしても必要です。(いつまで生きられるか誰にもわかりませんから…。)
 今思うと、信州に再び生活するようになってから多くの方のサポートを受けてきました。今は保険の募集代理店(外資系)を妻と2人で自営しています。
 最近では息子よりも若い人から指導を受けることにも抵抗がなくなり、大好きな北アルプスの山々に見守られながら、生涯現役でこの仕事を続けたいと思っています。。

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〜信州青木村に暮らして(2)〜


岡崎 華那子


 朝夕、涼しく秋の気配ですね。前回話題にした我が家の前の空き家ですが、その後のことをお話しましょう。


 ある日のこと、「ぜひ借りたいので連絡して欲しい」という方が現れ、ほうっておくのも悪いからと、仕方なく持ち主に電話をかけて借りたい方の旨を伝えました。
1週間後に返事がきて、「貸すことはしないが売りたい」とのことでした。それから借りたい方に「売るそうですよ」と連絡をしたところで、「私達は不動産屋でもないのに、なにやってんの?」と2人で笑ってしまいました。

 さてその次ですが、相手が「買いたいのだけど」と言ってきましたので、売り主様に「住所、氏名、電話を教えても良いか」と聞き、買いたい方に伝えて私達はこれで “The end” と、ほっとしたのです。

 それからまもなく売り主の娘様より、「実は父親名義の不動産を売買するには、父親が亡くなって6カ月以内に遺産相続の手続きをすべきなのに、8年も経って売買するには子供4人の印がなくてはならないし、税金も高いし、などなど…。全ての手続きが終わらないと売買できない…」とのこと。  私には法律のことは分かりません。

 よく遺言の話を聞きますが、夫婦元気なときに勇気を持って話し合い、妻、子供達のために夫は確かな考えで遺言書を準備して頂きたいと思わずにはいられません。総(すべ)ての妻よ、強く賢く生きましょう。
…そして今日に至っても、空き家の扉は閉まったままです。

 

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〜ミロ展へ行ってきました〜


中澤 滋


 私の大好きなミロの展覧会が軽井沢メルシャン美術館で始まったのは知っていましたが、11月まであるということと、夏休みは混雑するということで9月に入っても特に行く日を決めていませんでした。ところが女房の休みの都合から、連休の中日である9月17日に急きょ友人を誘って行くことになりました。

 御代田町周辺は連休中でもそれほど混雑することもなく、割合順調に美術館に到着しました。到着した時間が何だかちょうど良く、毎時0分からの、ウィスキー蔵の見学・説明コースがあと少しで始まる、というタイミングだったのです。
  そこで急いで17年もののシングルモルトウィスキーを試飲して、少し遅れぎみに案内の列に加わりました。なかなか良かった蔵の見学でしたが、私は試飲したウィスキーの柔らかな味わいが、なんとも良かったです(笑)。
 連れの女性たちは見学のあとにワインを試飲したのですが、こちらは美味しくなかったようで、「失敗だった」といっていました。

 さてミロ展ですが、前回は新宿の伊勢丹美術館で見て以来、もう25年も経っていました。あの時は絵画だけ160点の展覧会でしたが、今回は数では及ばないものの、初めて見るブロンズの彫刻やオブジェなどもあり、とても見ごたえのあるものでした。前回見た絵と同じものは1点だけあることは確認できましたが、あとは初めて見る作品ばかりだったようです。
会場は3連休中であったにも関わらずとても人が少なく、私達以外に十数人くらいしかいなかったと思います。ゆっくりと、そして何度も絵の前に立ったり遠くから部屋全体を眺めたりと、それはもうぜいたくな時間を堪能しました。

 信州に来て良かったことの一つとして、展覧会やコンサートなどの文化的な催しでの人の少なさ、チケットの取りやすさなどがあり、今回もその恩恵にあずかることができました。私は信州に来るまでに、東京で行われた主だった美術展にはほとんど出かけましたが、ひどいときは絵の前にロープが張られ、あふれた人の波に、あれよ、あれよという間に絵の前から押し出されることもありました。

 そんな形での芸術に触れる機会が多いという都会の人が、「田舎には文化があまりない」というのは、今から考えるとおかしなものです。毎週美術館に足を運んでも、ただ「○○展へ行ってきたよ」という、海外旅行での自慢話をするようなもので、その中身・質は田舎で観る芸術作品から受ける感動の数分の一かもしれません。

 さてミロ芸術の圧倒的な存在感、心奪われる色使いと線の躍動感に感動したまま、友人達とお茶を飲むことにしました。そこで敷地内にある東京會舘のレストラン「Chez ROSSINI」(シェ・ロッシーニ)に入り、モンブランのケーキを頼みました。840円と少々高かったのですが、これが近年味わったモンブラン中のベストで、大変満足だったのです。その余韻の残る満足度は久しぶりのもので、上品な甘さと口当たり、口の中で溶けて広がるほのかな栗の香と、こく…。もう言う事ありませんでした。

 以前、小布施町にある菓子店の「栗の木テラス」が出来たとき、女優のある人が「自分のお気に入り」などと、モンブランをずいぶんほめていたので、そのためだけに行ったことがありました。でも何のことはない、何処にでもありそうなモンブランの味に納得できなくてがっかりしたものです。

 私達夫婦にはそのときの“損した感じ?”がずーっと残っていて、今回シェ・ロッシーニのモンブランを食べてみて、あの時の敵討ちが出来たようで何やら嬉しかったです。次回こちらに来たときは、ぜひここで食事をしてみたいと思いました。 

 ということで今回はミロの芸術に、モンブランや試飲したモルトウィスキーというおまけまで付いて、何やらとても満足感のある、じわっと包まれるような幸せのまま、帰宅することができました。
 「ミロ展は期間中にもう一度行きたいね」、「ついでにモンブランも」、と話したものの、シェ・ロッシーニは9月いっぱいで今期の営業終了、来年7月まで待たなければなりません。残念です。


 

〜みたぼら通信〜


伊豆 光男

第368号
 早くも秋の様相を呈してきた今日この頃。我が家では、目下アイポッドのことで話題沸騰。何せ2500曲入るし、軽くて小さいし、8時間連続再生だし。とはいっても、やはり一番の問題は財布の中身である。無いものは無い。来月は高校のスクーリングもあり、何かと入り用である。頭の中でそろばんをドガチャガ、ドガチャガ。はて、今月の給与はどうなっているのかなぁ?
来年まで待てば安くなっているかもしれない。

 拠る年波には勝てない。髪の毛も元気をなくしつつある今日この頃、中身もぼけてきたのではと、家族は心配し、「昨日の夕飯は何だった?」と食事をしながら私に聞く。昨日の夕飯を思い出せないのは「ボケ」の始まりだと、3人の女達の口が次々と顔を見合わせてはうなずきあい、私のほうを見ては、「昨日の夕飯は?」と問う。

 毎晩、毎晩答えることができない私を見ては、女達は笑う。食べるものに興味の無い私は、食べてしまえばみんな忘れる。「昨日の夕飯は」「昨日の夕飯は…」と言うが、かにだとか、伊勢海老だとか、印象に残るものを食わせてくれよ、頭の付いてない、切り身の魚なんか覚えられないよ。町を歩いている人の脚だけ見て、名前をおぼえるようなものだぜ…。
 俺はぼけてない、しかし夕飯は思い出せない。何度もいじめられた後、「今日の朝ごはんはなんだった」と反撃をすると、何のことは無い、娘だって忘れているのだ。卵油を毎日欠かさず飲んでいる私はぼけない。(光男) 

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第369号 9月12日
 7月に産まれた三つ子のヤギたちに、長松・次松・末松という、姉好みの名前がつけられ、今日も元気に我が物顔で庭を駆け回っている。
 我が家には、小型のシバヤギたちと、一般的なザーネン種の青葉ちゃんがいる。 シバヤギは、たとえて言うならお盆の、茄子に爪楊枝を刺した茄子馬にそっくりの体型である。対してザーネンは、胴の大きさこそ同じだが、脚の長さは倍ほどもありたとえて言うなら、ダックスフンドとサルーキ(やったらめったら脚の長い犬種)、サラブレッドとポニー、缶ぽっくりと竹馬といった感じだ。

 シバ山羊たちが短い脚で一緒に懸命に走っている横を、青葉ちゃんは風を切って走っていく。 悲しいかな、山羊も脚の長さでここまで見栄えが違うのだ。でも山羊は、「あいつは脚が長くて羨ましいなー」なんて思わないので、至って平和である。私達が、「青葉は見栄えがいい!」なんていおうとも、遊びに来た子どもに、「わーあ、脚短いー」なんていわれても、別に気にしない。種類も体型も違えど、彼らは仲良しである。人間のように、お互いの違いなど意識しないので仲良しである。 ある意味羨ましい。(より夏) 

 関東地方の200万羽の養鶏場で鶏インフルエンザが発見された。役人は200万羽に驚いたのか、処分しないで様子を見ることにしている。理由は密閉型鶏舎であるとのことであるが、大きな排気口から空気が外に吐き出されている。近隣に菌が飛び散らないはずが無い。密閉型鶏舎は一度病気が入ると退治するのが難しいと、我が家へ来た家畜保健所が言っていた。大きなもの、力の強いものと弱いものとでは同じ法律が違って使われる。
 ケージの養鶏を続ける限り鶏インフルエンザはなくならない。運動もできない、不健康な鶏は病気になりやすい。

 農業を知らない、机の上でしか知らない役人が農業の指導をするからいけない。現場で五年、実習をしてから霞ヶ関に行くような制度にしないと、農業に興味も無い役人が、職業を指導することになり、現にしている。わが町にも農業振興課があるが農業をどうすれば良いのか策を持たない。山の中の農地は年毎に荒れてゆき、猪の運動場になっている。(光男)

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第370号 同居の仲間について
 早くも秋の様相を呈してきた今日この頃、我が家の猫リリーは、わがままなこと ばかり言って母の堪忍袋を引きちぎった。彼の食事は、猫缶と玉子であった。この猫缶がくせもので、安いのを買ってくると口もつけない。かといって、ずっと同じものだと飽きる。あれはいいけどこれは嫌、ずっと同じものも嫌。とんでもないわがまま者である。今までは、2種類の猫缶を常備していたが、これは贅沢すぎるという話になり、目下、犬猫用煮干のお徳用パックと玉子のいたって質素な食事への転換となったが、本人(本猫)は煮干が気に入ったのか、今のところ文句はないようである。

 もう1匹いるペルシャのフーは、偏屈な猫である。食べ物はいつも変わらずドライフードであるが、誰かが付きっ切りで手に乗せてやらないと食べない。たいてい世話を焼いてやるのは母か姉であるが、ふたりとも手が空いていない場合、しつこく付きまとった挙げ句、しかたなく私のところに来る。私が無視し続けると、どうしようもないということで父のところに行くが、ご機嫌は斜めである。しかも、片手でえさをやると怒る。例えば、テレビを見ながら、本を読みながらやっていると、こっちを見ろといって服につめを掛ける。冬場、セーターを着ているときなど、一箇所だけ毛糸が伸び、その周りが縮んでしまう。こうなると伸ばしてもなかなか元に戻らない。逆にリリーは、気に入ったものが出れば勝手に食べてくれるので、それのみをいえば手の掛からない猫である。ただし、2匹とも猫用のえさばかりを食べているわけではない。食事時ともなれば食卓の周りをうろうろしてはおこぼれを貰おうとする。

 リリーは、以前の飼い主がご高齢のご夫婦だったせいか、食べ物もシブ好みである。漬物やあんこ、せんべいなどを好んで食べる。フーの場合、魚よりかぼちゃやノリがお好みである。そのため彼は我が家のベジタリアンと呼ばれている。しかし、彼の好物であるノリは、よく上あごに張り付くので、私らが取ってやらなければならずやはり世話が焼ける。

 どちらにしても、人間より手間の掛かる猫達である。とはいっても、我が家に来た当初は皆、手間の掛からない猫だったわけで、それが、我が家の人々による手厚い歓迎を受けた結果、次第に犬も猫も変貌を遂げた。突き詰めていけば、そもそもの原因は私達にあるといっても過言ではない。
 結局、一番手の掛からないのは鳥たちなのだと実感しつつ、歳を取ってますます世話の焼けるようになった犬と、まだまだ長生きしそうな猫を見て、私らはため息を付く。覚えがない?(より夏)

 

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第371号
 心配の種だった中間試験も、どうにか終わり、結果は別にしても少しは気が楽になった今日この頃。
私たちの通信高校では、毎週土日のどちらかで、提携している協力校に通う方法のほかに、私らのように1週間ほど泊り込む集中生がいる。泊まり先はたいてい青年の家で、前期と後期の2回ある。試験は、音楽と体育を除くすべての教科で筆記試験があり、最初の2日ですべての試験を終え、残りの日程は授業を受ける。授業を受けないと、時間数が足りず単位をもらえない。試験が終わって廊下を歩いていると、しゃべったことの無い男の子が、「お疲れー」と声を掛けてくれる。こんなことがあると、少し疲れが抜けたりする。試験はというと、文系科目以外は、いまいち不安である。ところが、上には上がいるもので、「俺、理科の紫外線のところに柴外線って書いたかも?」などと笑いながら大声で話すやつがいて、なぜだか少し安心したりする。

 教師陣は、東京本校から来た先生と、協力校の現地講師の先生がかわるがわる教える。ところが、この現地講師の先生が癖者である。まず驚いたのは理科B(注 理科Aは化学、物理など 理科Bは生物や地学)の先生で、教室に入ってくるなり「僕、理科B教えたこと無いんだよねぇ」。実はこの人、化学の先生だった。人員不足はわかるが、頼むから専門外の先生を連れてこないでほしい。

 今回はメンデルの遺伝の法則で、メンデルという人が、えんどう豆で行った実験の話だ。大まかな話をすると、いつもシワの種を作る豆と、いつも丸の種を作る豆を交配させると、子どもの代では丸い種だけでき、孫の代になると三分の一の確率でシワの豆が混ざるというものである。それを血液型などの話にたとえて説明してくれるのだが、それらすべてが「昨日聞いてきたシリーズ」なのだ。

 あげく、「はい、全員耳ほじって」何のことかと思えば、「耳垢ネッチョリの人、カサカサの人」とか言い出すしまつ。隣の席の男子が「俺、ネッチョリ」というと、彼を指差し、「君は両親そろってネッチョリだ!」。もう訳がわからない。どうやらこれも遺伝らしいが、クラス全員爆笑である。次の日は理科Bの地学の授業で、これまた専門外。「何だこれ? 意味わからん?」を連発。面白いのだが、要点のつかめない授業だった。

 集中3日目、レクリエーションとして、学年対抗バレーボール大会が開かれた。私たち1年は、2・3年を押しのけ、見事1位に輝いた。表彰式で、各学年代表が指導主任の先生から表彰状をいただいたのだが、3位の3年は、「あなた方は、遠慮深く周りを思いやり」うんぬん。2位の2年は「あなた方は、強からず弱からず、その中途半端さがたまりません」うんぬん。1位の1年が最悪で、「あなた方は、目先の欲に目がくらみ、恥も外聞もなくこの栄誉を掴み取ったでしょう」。よくよく考えれば、3位が1番いい評価である。妙に力の抜けるバレーボール大会だった。(より夏) 

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〜美味しい味を、すこし(29)〜


中澤 滋


 このところ薫製のベーコンを作っていますが、今までに作ったものが大体安定した味で、また人の評判も良いことから皆さんに紹介したいと思います。手軽に中華鍋で作る薫製ですので、家庭でも簡単にできますよ。

ベーコン


<材料>
豚バラ肉1キロ
調味液(塩100g、砂糖60g、コリアンダー大さじ3、ナツメグ小さじ2、粗びきコショウ小さじ3、ローリエ3枚、ニンニク1かけ(薄切り)、ショウガ1かけ(薄切り)、水5カップ)

<作り方>
 鍋に調味液を入れて弱火で煮て冷ましておきます。味がしみやすいように肉全体にフォークなどで穴を開け、ポリ袋などに調味液と肉を入れ、冷蔵庫に2日間寝かせます。

 2日後、塩加減を見るため肉を少し切って焼いてみます。たいがい塩辛いので、流水で30分から1時間ほど塩抜きをして加減します。途中で肉をなめるなどして塩加減を確認して下さい。

 塩抜きの終わった肉を、S字フックなどで吊るして1時間ほど陰干しします。その間に中華鍋にアルミホイルを敷きつめ、蓋をしたときに煙が逃げないようしっかり行います。つぎに桜などのチップを二握りほど入れて準備しておきます。
 
1時間後、肉の表面に膜が張ったような照りが出てきたら、いよいよ薫製開始です。

 中華鍋を強火で熱し、煙が出てきたら弱火にして、肉を乗せたもち網をセットします。煙が逃げないようフタをしてから強火にして10分熱します。そとの後弱火にして約2時間放っておいたら出来上がりです。

 そしたら、出来上がりの温かいベーコンをまず食べてください。まるで東坡肉(とんぽうろう)のようなホロッとする触感と、適度なスモークの香り、そして肉のうま味と調味液の複雑な味が合わさり、「こんな味初めて!」とびっくりすること請け合いです。

 調味液のハーブ類を調整したり、薫製するチップなどを変えることでバリエーションがいろいろ楽しめます。チップにヒッコリーやアップルなどを使ったり、紅茶やザラメを混ぜて使う人もいます。

  また、ゆで卵やチーズ、調味液で下味をつけた鶏もも肉、イカ、魚の切り身、ホタテや一夜干しのカレイやシシャモなどを一緒に薫製するのも面白いですよ。これらの薫製時間は材料にもよりますが、30分位かな。ご自分で試行錯誤してください。

 我が家では狂牛病騒ぎを機に、何が入っているか分からないハム・ソーセージなどの加工食品は買わなくなりましたが、そのおかげ?で自分で作る美味しいベーコンを食べています。

 さて材料ですが、一つだけこだわって欲しいことがあります。それは上等なばら肉を使うことです。たとえば100gが200円位の黒豚や黄金豚(こがねぶた)(つるやに置いてます)などで作ってください。
 また肉が1キロで多すぎる場合、私は半分をパンチェッタにして半分を薫製にします。皆さんも是非チャレンジして下さい。売り物とは全くの別物の食の味に感動することでしょう。

 


編集後記

 10月1日に穂高町、豊科町、明科町、三郷村、堀金村の5町村が合併して、人口約10万の安曇野市が誕生しました。市役所は豊科の合同庁舎内に置かれ、旧町村役場は総合支所として今まで通り住民サービスを行うことになります。合併特例債によるハコモノ行政ではなく、安曇野らしさを生かした住民主体の地域づくりが進むことを願いたいですね。(宮)

  穂高町から安曇野市へ…。10月からメデタク(ない?)私も町民から市民へとなり変わりました。だからといって生活がすぐにあれやこれやと変化する訳ではないのですけど、一連の合併騒動(?)によってそれまで以上に行政への関心が高まったのは事実。単純な行政批判だけでなく、自分自身の住民としての在り方を含めた“まちづくり、暮らし作り”の道筋を真面目に考えて行きたいと思います(高)

 新聞紙上で毎年一度は話題になるサツマイモの花ですが、今年はなんと隣の庭に咲いていました。私の家の駐車場のそばだったこともあり、第一発見者は私で、さっそく近所の人達にも見てもらいました。隣の家の奥さんは「新聞社に電話しなくっちゃ」と冗談まじりに言っていました。暑い地方で咲くことはあるということですが、私も実物を見るのは初めてでした。9月から順繰りに咲いて、10月に入り、先日芋を収穫するまで咲いていました。ヒルガオよりやや筒が長い形の白い花で、中心部がヤマブドウのような色でした。今年は暑かったのかな? あるいは芋の品種のせいなのでしょうか。(中))

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