●●●最古の神社といわれる諏訪大社、本家本元の諏訪大社上社本宮を訪ねる●●●
信濃のなかでも、諏訪は独特の雰囲気を持つ。古代には、信濃国から独立した諏訪国の時代もあったほど。『古事記』によれば、出雲の大国主(おおくにぬし)神の次男である建御名方(たけみなかた)神が大和への国譲りに反対したが敗れたために、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。一方で、諏訪地方に伝わる神話では建御名方神が諏訪に侵入した征服者として描かれる。先住神の洩矢(もりや)神が建御名方神との戦いに敗れ、結局は諏訪の統治権を建御名方神に譲ったという。その結果、諏訪大社上社の神として祀られることとなった。
不思議なのは諏訪大社(4つのお宮、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮で成り立つ)の起源とされるこの上社本宮には、幣拝殿と片拝殿のみで本殿がない。しかも、拝むのは守屋山でこれがご神体なのだ。祀られているはずの建御名方神の影が薄い。古く縄文から受け継がれた地元の信仰が優先されたのだろうか。諏訪を中心に信州では自然をあがめる古代の神ミシャグジ信仰と呼ばれるものがある。これとの関係性はありそう。縄文時代の諏訪地方は、狩猟採集に適した土地であっただけでなく、黒曜石(こくようせき)の産地でもあった。黒曜石は包丁やナイフに加工され、鏃(やじり)にも適していため、全国からの需要があり、当時、諏訪地方は人口密度が全国一で栄えていたいう研究がある。
上社本宮のご神体が宿る守屋山については、6世紀後半の大和朝廷における神仏論争で、聖徳太子の裁定により、蘇我馬子らの仏教派に敗れた神道派の物部守屋(もののべもりや)が諏訪に逃げたことにちなんでいるという説が強い。しかし「モリヤ」とは旧約聖書『創世記』に出てくる「エルサレムのモリヤ山」から来ているとの主張もある。紀元前7〜8世紀に滅んだイスラエルの失われた十支族の一族が諏訪にたどり着いたという説だ。そういえば、イスラエルの駐日大使は着任すると真っ先に諏訪を訪れると聞いたことがある。
また、旧約聖書のイサクの物語とそっくりな「御頭祭(おんとうさい)」という奇祭が諏訪大社で毎年4月15日に行われている。「少年が『御贄柱(おにえばしら)』に縄で縛られ、神官が小刀で少年を切りつけると、使者が現れ神官を止めて少年は開放され命が救われる」という神事。そして少年の代わりに鹿75頭の首を神殿に供える。いまは、鹿の剥製(はくせい)で代用しているというが、江戸時代までは本物が使われていた。
仏教の教えから肉食を禁じる風習が強かった江戸時代に、諏訪大社が肉食の免罪符として「鹿食免(かじきめん)」札を発行していた。この札があると、シカ・イノシシなど動物を獲って食べても良いことになる。
全国に諏訪神社は25,000社あるといわれ日本一の数である。もちろん、この「鹿食免」のおかげであろう。7年ごとに開催される御柱祭についても、起源がはっきりしない。記録に残る最古は安土桃山時代らしい。また、長野の善光寺は諏訪大社の真北の位置にあり、善光寺の創建時に関係した天台宗の北斗七星信仰と関係するともいわれる。善光寺のご開帳と御柱祭との連動から、両者の関係は浅くはないだろう。
このように謎の詰まった諏訪大社。歴史的には縄文と繋がり、地域的には世界と繋がっていて気宇壮大(きうそうだい)な広がりを見せていて、興味深い。