松本に移住して12年、「国宝」という名に引き寄せられ、大町の仁科神明宮を何回訪れたか数知れない。信州への来訪者を案内するにも松本から比較的近いので連れて行きやすいということもある。しかし、皆さん、どこが国宝? という顔をされる。規模も施設もあちこちにあるような、村の鎮守のお宮さんと変わらない。仁科神明宮が国宝なら、諏訪大社も当然国宝となっていると思われるのだが、実は諏訪大社は国宝ではない。
ではなぜ「国宝」かというと、仁科神明宮には、天照を本尊とする本家本元の皇太神宮(伊勢神宮)がそうであるように、21年目毎に遷宮を繰り返すしきたりがあった。仁科神明宮も、社殿の造営については創祀以来、皇太神宮にならって21年目毎に式年造営の儀を執り行ってきた。永和2年(1376年)から21年目毎に奉献された棟札が1枚も欠かすことなく保存されているという。このように600年間も式年遷宮が行われた記録は全国的に例がない。
しかし、仁科氏が武田信玄に滅ぼされ、さらに武田が織田・徳川に滅ぼされたあとは、松本藩主が代って庇護したのであるが、寛永13年(1636年)の造営を最後として、その後はすべて御修造(修理)に留まり現在に至っている。現在の社殿はその時のもので、約350年を経ている。つまり、財政上からか遷宮できなかったため、古いままの神明宮本殿・中門がそのまま残り、それが昭和になって評価されて国宝となった次第である。
国宝に指定されたのは、意外と古く戦前の昭和11年。この年は、軍部青年将校による二・二六事件があり、日独防共協定が結ばれるなど、戦争にまっしぐらに向かっていた時代であった。ある意味、国家神道賛美、戦意高揚の狙いがあったとの説もある。
では、創建されたのはいつごろであろうか。「神宮雑例集」の記事によれば、信濃に初めて神戸が封ぜられたのは後冷泉天皇の永承3年(1048年)12月のことから、御厨(神社)の建立はそれ以後とみられる。つまり、伊勢神宮の荘園であったことに端を発している。最終的に伊勢神宮内宮の御厨となった。「新宮雑書信濃御厨」の記事にも、建久3年(1192年)麻績、藤長、長田の御厨とともに仁科御厨の名があり、「件御厨往古建立地」と注記してある。信濃で最古の御厨と推定されるという。信濃国内の御厨は全て伊勢神宮領であった。
一方で、仁科氏は御厨以外の自領を荘園として開発し仁科荘を成立させている。とはいっても、延喜5年(905年)に成立した全国のお宮を網羅した文献「延喜式」には、安曇郡には穂高神社と川合神社の2社の記述があるのみで、仁科神明宮の名はない。創建は平安時代になってからと推定され、それほど古くはない。
江戸時代には、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説がひろく流布され、神仏混合のお寺(神宮寺)が境内に建立されていた。明治初期の神仏分離令(廃仏毀釈)によってお寺は取り壊されている。♪村の鎮守の神様の〜…そんな、のどかで素朴なお宮として親しまれてきたものが、昭和11年、突然に国宝になったという。当時の村人たちはさぞや驚き、喜んだことだろう。