2000年台に入ったころに、信州大学名誉教授だった坂本博先生の信濃安曇族の考察本が大いに話題になった。『信濃安曇族の残骸を復元する』『信濃安曇族の謎を追う』『信濃安曇族こぼれ話』の三部作が出版され、小生も、移住した直後にむさぼり読んだものだった。なぜ信濃の山奥に古代から安曇郡という九州の海人族の名前があるのか? 坂本氏の推論の大筋は、527年に始まった磐井の乱(いわいのらん)で志賀島を本拠とした安曇族が敗走し、信濃に逃げ込んだ。そして一族は6世紀から滅亡したとされる11世紀の間、たいへんに繁栄し、地名として残ったとする。
しかしその後、この地から安曇姓は消滅している、物的証拠としては、”前科郷戸主安曇部真羊”と”郡司主帳安曇部百鳥”の二人の名が安曇郡からの献上品の麻布(正倉院蔵)に墨書されているのみである。ところが戦後まもなく、全国の伝統的な歴史工芸美術品を調べていた田文作氏(のちに奈良国立博物館館長)が、北安曇郡松川村ですごい仏像を発見する。これが、観松院の弥勒菩薩半跏思惟像(はんかしいぞう)で、国の重要文化祭に指定されている。
像高16.4cm、総高30.2cmの金銅製で、右手の部分だけが木製で補修されている。どうやら江戸時代に失われたらしい。もし元通りであれば、国宝指定は間違いなし。専門家による製作年代特定では、6世紀末に百済(くだら)から伝来したという説が有力。6世紀末と言えば、聖徳太子の時代。中央の大和では、蘇我氏が氏寺の飛鳥寺を建立したころ。この弥勒菩薩像は、善光寺の釈迦三尊像よりも古く、日本最古の渡来仏の可能性もある。田文作氏は、すごく美術的な価値のある仏像がなぜ雪深い信濃の奥にあるのか、不思議に思ったそうだ。その後、明科(安曇郡役所があった)で見つかった廃寺は安曇族と関係が深く、そこの本尊だったのではとの推測もある。
そんな歴史ロマンの詰まった弥勒菩薩は現在も松川村の観松院にあるが、安置場所は旧安曇郡内をあちこちと動いた形跡がある。なぜ最終的に、松川村に運ばれたのかは、はっきりしない。安曇野ちひろ美術館館長の松本猛さんと菊地恩恵さんとの共著小説「失われた弥勒の手」(2008年刊・講談社)では、まさにこの弥勒菩薩像が松川村にある謎がテーマとなっている。
金福山観松院は曹洞宗の寺院で無住(住職がいない)。1956年(昭和31年)に寺格を取得している。本堂と慈代堂を85軒の檀家が支えている。本尊が重文指定された際に別棟として収納庫を作り弥勒菩薩本尊を安置した。電話で予約して行くと拝観料300円で拝ませてもらうことができる。一見の価値は十分すぎるほどあるといえるだろう。