●●●仁科家の形見、若一王子(にゃくいちおうじ)神社は神仏習合信仰の姿を色濃く残す●●●
大町という地名は各地にあるが、どこも町の中心街や目抜き通りという意味合いがある。信濃大町もかつてここに君臨した仁科氏の街づくりから中心街という意味合いがあるらしい。ただ、古代の壬申(じんしん)の乱(672年)に勝利した天武天皇が、幼少のころ大町で育ったとの説があり「王町」から来ているともいう。いずれにせよ仁科氏のお膝元で、街づくりの要点に若一王子(にゃくいちおうじ)神社が建っている。戦国時代、武田信玄の攻略で、仁科氏は滅亡する。城主・仁科盛政(もりまさ)は甲州に連れていかれ切腹。盛政に代え信玄の五男・信盛(のぶもり)に仁科姓を与えてすり替える。が、その信盛も織田信長の武田攻め(1582年)により、高遠城の落城とともに戦死する。武田氏は滅亡。ここに仁科姓は消滅し、大町は江戸時代を通じて松本藩の所領となった。したがって城はない。県歌「信濃の国」の歌詞に信盛が出てくるが、信盛は甲州人なのである。
さて、国宝仁科神明宮は律令時代に伊勢神宮の荘園があったことに起因しているが、名門といわれる仁科氏そのものの出自はどうか。諸説ある。坂本博著『信濃安曇族こぼれ話』で、篠崎健一郎氏の四つの説が紹介されている。@弥生以来の地生えの豪族 A蝦夷(えぞ)の虜囚(りょしゅう)の末裔(まつえい) B安倍貞任(あべさだとう)の子孫 C大和の安倍氏の流れをくむ氏族。仁科氏の興亡を記した謎の書『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』には、崇神天皇の時代から弘仁天皇までのおよそ1000年間における、神話時代や古代からの仁科氏の歴史、安曇平の歴史や、地名の起こり、中央政権の動向が記述されている。著者は不明で、制作年代も平安時代初期に始まり江戸時代に完成したといわれているが、仁科氏の出自についてはっきりしない。
毎年の夏祭りで子どもの流鏑馬(やぶさめ)で知られる若一王子神社。その語源は? といえば、神仏習合の神様のこと。熊野三山に祀(まつ)られる熊野十二所権現のうち五所王子のなかで、若一王子は第一位とされる。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神(あまてらすおおみかみ)あるいは瓊々杵尊(ににぎのみこと)と同一視されている。仁科氏が厚く信仰していた熊野権現那智大社(くまのごんげんなちたいしゃ)を大町の地に分社したと伝えられ、本殿は、安土桃山時代の様式をよく留めていて、国の重要文化財に指定されている。
神社にもかかわらず境内には三重塔(長野県宝)や観音堂(大町市指定文化財)が残り、神と仏を一体とする「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」を色濃く残している。その思想は神とは仏を守る権現であり、江戸時代までは神社に寺院が建っているのが普通だった。ところが明治政府の「神仏分離令」により様相は一変する。
松本藩(最後の藩主は戸田光則)は特に激しく廃仏毀釈を断行した。20年程前に、三重塔の中に置かれていた焼けた木を町の大工が大切に保管していることが判明。それは実は仏像だったのだ。首から上が切ってあり、頭の上に十一面があった。当連載の16回で紹介した、旧八坂村藤尾に建つ覚音寺の千手観音より更に古い平安時代11世紀の仏像と鑑定された。もし現存すれば、国宝級の仏像と思われる。明治維新当時の若一王子神社では、本尊の仏像を焼くことで「神仏分離令」に忠誠を示し、そのことで三重塔や観音堂(江戸時代中期の建築物)を残したのであろうか。その結果、全体の建物の破壊を免れたのではないかという推測も成り立つという。
「廃仏毀釈」は明治維新の“文化大革命”といえる。信州における爪跡をまたひとつ知ることとなった。