武田信玄(晴信)は天文11年(1542)に諏訪郡を統一した諏訪頼重を攻め破る。翌年には上原城を修築し、板垣信方を在城させ、塩尻峠ひとつを境として府中(松本)に近づいてきた。信玄は天文14年(1545)7月18日に塩尻峠(勝弦峠)に配備していた小笠原長時軍を攻撃し、勝利する。いよいよ信玄の松本平侵攻だが、そのためには松本平に侵攻基地が必要になる。現松本市村井の村井城(小屋城)を普請させ、ここを小笠原攻めの本拠とする。
ついに天文19年(1550)信玄は松本平に侵攻する。すると、林城・深志城・岡田(伊深城)・桐原城・埴原城・犬甘城といった小笠原の支城は戦うことなく落城(自落)。小笠原長時の居城、林城も自落する。長時は戦わずして逃走し、信濃を追われる。家臣たちの多くは武田信玄に従うことになった。
武田家は古くから甲斐国全域を支配する守護だった。小笠原家もその勢力範囲は筑摩郡・安曇郡に限られていたが、信濃守護を勤める家柄だった。その末裔である信玄と長時は敵対関係となるが、実は先祖を同じにする「甲斐源氏」一族なのである。甲斐源氏を称する義清の息子、清光から加賀美遠光系と武田信義系に分かれ、遠光の子である長清が初めて小笠原を名乗る。つまり非常に近い親戚関係だったのである。もし武田と小笠原が手を結んでいたら世の中はどうなっていたか分からない。が、小笠原は室町将軍との関係や小笠原流の相伝者を自負して、常に武田を一段下に見下す傾向があった。
信玄は小笠原の本拠であった林城には目もくれず、平城の深志城を修築して府中の支配、さらには北信濃進出のための拠点とする。深志城がどのような城であったか、考えるネタがあるとすると「馬出」でであろう。
下記に掲載した「図1」は享保13年(1728)に描かれた松本城の縄張で、信玄の頃からこのような城郭になっていたとする説がある。証拠としてあげられるのがA〜Dの丸で囲んだ部分。松本城本丸を囲む堀のうち一番外側に掘られた総堀だ。そこには全部で5つの出入り口(虎口)があった。一番南側の虎口は大手門。大手門をのぞく4つの虎口には馬出がある。
馬出とは虎口の正面に半円形や角形の堀を掘り、土塁を設けて虎口が隠す曲輪。丸馬出は武田氏特有のものと考えられてきた。確かに松本城の4つの馬出の内3つは完全な丸馬出である。これが深志城の普請の時に武田によって築造された名残りといわれる。であれば、武田時代の深志城は近世城郭の松本城と同じ規模だったことになる。
これに対して、中世のままの城郭の形が江戸時代を通して維持された可能性はないとして、深志城は松本城とは異なる規模や形で、堀も2重であったとする説もある。新府城は韮崎に武田勝頼の時代に築造された。その想定復元図を見ると、大手門が丸馬出となっていた。このように丸馬出は武田による築城と捉えられてきた。しかし、最近は徳川も丸馬出を築造していたことが指摘されるようになった。最近の研究では、近世城郭について、幕藩体制下では譜代大名の城に馬出が造られ、ほぼ近世全般を通じて普請されたことが分かってきた。はたして松本城の馬出は武田の普請によるものか?
武田は勝頼の代で滅亡するまでの32年間、深志城に城主・在城衆・普請奉行を置いて君臨していた。深志城時代に、武田式の丸馬出などの実戦に適した普請が行われたことは確かだろう。