信玄は深志城を普請して、筑摩郡の支配に成功。安曇郡には信玄の5男仁科五郎盛信を配置して、背後を固めて北信濃を目指して進出する。北信濃では最大の難敵村上義清を破るが、義清は越後にのがれて長尾景虎(上杉謙信)を頼った。この後、永禄4年(1561)に至るまで、5度の合戦、つまり川中島の合戦である。川中島一帯は信玄の支配となり、松代にあった海津城を普請して北信濃へ進出する本拠地とした。
天正10年(1582)に武田氏は滅ぼされ、織田信長は深志城と武田が支配した旧領地を木曽義昌に与えた。間もなく本能寺の変で信長が倒れると、信濃は境を接する北条・上杉・徳川といった大名たちが狙う。早かったのは上杉景勝で、越後にいた長時の弟小笠原貞種を援護して深志城に入城させる。長時の息子である小笠原貞慶は徳川家康の力を頼って1582年の夏ごろに深志城を奪う。貞慶は深志城を松本城と改めて城下町の整備をする。天正18年(1590)に豊臣秀吉が北条氏を破り、天下を統一。その結果、徳川家康は関東に領地替えをさせられ、家臣であった貞慶は息子の秀政とともに下総国古河へ領地替えとなった。
秀吉は松本へ石川数正・康長親子を入府させる。関東の家康を警戒した秀吉は、その押えの城の築造を命じたとも。数正は文禄元年(1592)に亡くなり、息子の康長が築城を続け、ついに松本城天守が完成。色が黒いのも当時の大坂城を手本にしたためともいわれる。文禄2〜3年(1593〜94)の完成など、諸説ある。康長築造の天守は3棟は右から大天守・渡櫓・乾小天守。
文禄年間は朝鮮出兵などがあり、松本城にも戦(いくさ)の備えが数多くある。まずは敵の侵入を防ぐための巨大な堀。それが3重にめぐらされた。ただ、一番外側の三の丸を囲む総堀の完成時期がわかっていない。総堀には5ヶ所の虎口(出入口)があり、南のひとつは大手門である。
自説(宮島氏)では、松本城の馬出は石川康長の時代に築造されたと考える。不思議な史料として「家康公石河玄蕃に下さる御朱印の趣」と題され、天正20年、筑摩郡3万5755石、安曇郡2万2469石、都合5万八8225石を知行するよう」に書かれている。
非常に細かい数字で正確らしい。問題はなぜ秀吉の家臣の康長に家康が領地を安堵したのか。慶長2年(1597)9月29日には、康長は豊臣姓をもらったが、慶長3年に秀吉が死去すると、2年後の関ヶ原の戦いでは家康のもとで参戦している。もし馬出がこの後に造られたとしたら、松本城の馬出は武田流のものでなく徳川流の馬出だった可能性も出てくる。その後、石川康長は秀吉と親しかったという理由から(?)、改易されている。
松本城は江戸時代以前からの天守が残り、同じ城は松本城をふくめて12(現存12天守)。弘前城(青森)、丸岡城(福井)、犬山城(愛知)、彦根城(滋賀)、姫路城(兵庫)、松江城(島根)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、伊予松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)、高知城(高知)である。
これらのうち松本城は唯一の平城。松本城には戦うための仕掛けが数多くみられる。各所に狭間と石落としがある。四角い穴を狭間(さま)といい、この穴から鉄砲で敵をねらう。石垣より外にはみ出している部分が石落としといい、実際には鉄炮の一斉射撃に使われるもの。江戸幕府の支配が浸透し、平和な時代になると松本城も様変わりする。たとえば、月見櫓。1630年代に増築されたようで、大天守とは2階建ての辰巳附櫓に連結して東に突き出すように造られた。朱塗りの勾欄も設けられた。畳を敷くのが可能で、畳の上でお月見をしていたかもしれない。大天守・渡櫓・乾小天守・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定されている。