このシリーズの3回目に「小笠原氏の夢の跡・林城を散策」を書いたが、今回は小笠原氏菩提寺の廣澤寺に5月13日に行って来た。信濃小笠原のルーツは古く、鎌倉時代末期建武元年(1334年)に小笠原貞宗が、信濃守および信濃守護に任じられ、筑摩郡に井川館を築いたところから始まる。いわゆる井川城である。ここは平地であったために攻められ易いという欠点があったためか、室町時代の長禄3年(1459年)小笠原清宗によって山城の林城を築いて移ったと伝えられている。
廣澤寺は嘉吉元年(1441年)、信濃守護で松本井川館主の小笠原政康が創建し、福井県南条郡南越前町の慈眼寺を本寺として、当初は臨済宗(現在は曹洞宗)の寺として開創されたという。お堂は山の中腹に建っていて、麓からは歩いて20分ほどかかる。西側はアルプス連山が見渡せて絶景である。最初は政康の法名「龍雲寺殿天関正透」から護法山龍雲寺と称した。天文11年(1542年)に小笠原長棟の法名「廣澤寺殿天祥正安」に因み龍雲山廣澤寺と改められたという。年代を追ってみると、創建は林城より菩提寺の廣澤寺が先で、林城は後から築城されたことになる。
林城は小笠原長時が天文19年(1550年)に武田信玄に敗れて信濃を退去したのちは、そのまま廃城となった。しかし、廣澤寺のほうは脈々と受け継がれて今日に至っている。歴史的に、この寺が破壊される機会は二度ほどあった。最初は、武田信玄による焼き討ち。だいたい、攻城の折には付属する寺院は焼かれることが多い。信玄は仏教を信心していたせいか廣澤寺に手をつけなかったようだ。二回目の危機は、慶応4年(1868年)に新政府から出された通称「神仏分離令」による廃仏毀釈である。松本藩(城主戸田)は全国的にも非常に厳しかったが、小笠原家の菩提寺であることから例外的に破壊から免れた。
意外と知られていないのが、小笠原氏と武田氏が縁戚にあたること。武田氏は元をたどれば小笠原氏と同じ系統で、甲斐源氏の嫡流となった。これに対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるが、格式の上では武田氏に劣らない。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。戦国時代には(信濃)小笠原氏宗家は武田信玄に所領を奪われ没落するが、武田氏滅亡後に再び深志城(のちの松本城)を奪還して復帰する。江戸時代には譜代大名とまでなっている。
廣澤寺への参道には欅(けやき)の古木が鬱蒼(うっそう)と茂り、本堂に辿りつくには急な坂を登る。まるで登山のようで、ひたすら体力と気力が試されるようである。