小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩(こま)郡にあり、現在の山梨県北杜市明野町小笠原と、原小笠原荘があった山梨県南アルプス市小笠原に居館があったとされる。今日の研究では原小笠原荘が小笠原氏の本貫とされる。甲斐源氏の嫡流(ちゃくりゅう)武田氏に対し、小笠原氏は庶流(しょりゅう)だが、全国各地に所領や一族があった。鎌倉末期に信濃に本拠を移し、室町幕府から信濃守護に任ぜられた。その嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代、信濃の小笠原氏宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、武田氏滅亡とともに奪還する。深志城を改名した松本城に割拠して、江戸時代には譜代大名となった。
廣澤寺は小笠原氏の菩提寺として室町時代の1441年に建立された。本堂から西北に広がる丘陵地には墓地・小笠原家廟所があり、歴代の城主や小笠原ゆかりの人々が眠っている。
天正10年(1582年)、武田滅亡後の所領を巡る「天正壬午の乱」で、小笠原長時の弟小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、武田から深志城を引き継いだ木曾義昌から深志城を奪還。さらに、長時の三男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城に入城する。天正18年(1590年)には貞慶の長男・秀政が下総古河3万石を与えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、翌年の慶長6年(1601年)には信濃国飯田5万石に加増の上で転封となる。小笠原秀政・忠脩父子の墓所は廣澤寺に現存する。
一方、小笠原氏を有名にしているのは、小笠原流○○であろう。武家社会にあっては、礼典や武芸の継承が重要視され、幕府お墨付きの流派として確立したのが、小笠原流である。煎茶道や兵法など、その起源と分野は多種多様である。たとえば抹茶の茶道では、江戸時代に千利休三世の千宗旦の高弟を迎えて小笠原家茶道古流を興している。
「小笠原流」をヤフーで検索すると、468件ヒットした。今日では「作法」や「礼法」が重んじられているが、武家社会にあった当時は将軍の馬術・弓術の師範としての役割を果たしていたのが「小笠原流」である。その宗家筋の菩提寺として墓所として、信濃に存続している廣澤寺には感慨深いものがある。(参考・Wikipediaほか)