Iターンネットワーク

新・信州人倶楽部

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新規 2003.8.4

更新 2003.9.17

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Iターン大賞応募全作品の一部をここで紹介します。各作者の想いや文体を感じ取っていただけたら幸いです。


輪が二つ

上水内郡信州新町・38歳男性

 
 私の両親は長野県の田舎っぺ。町内に有る山の上と下に住んでいたらしい。親父が、丁稚で東京の下町に出たのが私を東京「出身者」に仕立てるそもそもの始まり。丁稚に出てさほどせず母と「見合い」結婚、養子……と言う事は、自然と長野の母の家を継ぐ事は決まった。

 うむも言わさず私を生み、その使命を背負わせた、当時「Iターン」などと言う言葉は無かった、昭和39年。
その頃「高速道路」など無かったと思う国道二十号線を使って事有るごとに行ったり来たり、親父も若かった。
何回目かの夏、何時もどおり三人で帰省、どこか違うのは「帰りは二人」と言う事、そうそう、私が置いてきぼり…でも、悲しんだのは両親だった。喜んでいる私を見て…ハハハ昭和42年。

 小学校に入り、私達家族は盆と正月に必ず帰省した。私もそれが楽しみだった。夏は山や川、冬は「お年玉」、ばあちゃんが農協から貰った貯金箱に小銭をたんまり貯めて待っていてくれた!そう、札束の形の貯金箱だ。農協の貯金箱は小学校卒業迄続いた。今思うと既に私への「すりこみ」は実行されていた…。

 中学に入っても年二回の家族行事は変わらなかった。普通だとこの年の子供は親子の確執と言うのかあまり親子や家族で行動しないものだが、普段ほったらかしにされている私にとってはその様な言葉は皆無に等しかった。
長野には東京よりも、もっと「自由」が有った…全ては両親の策略だったとは今更ながら気が付いた。高校にどうにか入れた私はバイトをした。

 マンションの電気工事から、消火器のセールス、鉄くずの仕分け、自転車屋!自転車屋は長かった。専門学校へ行っても続けていたので自転車屋の親父は兄貴の様に思えた。

 高校から何故「専門学校」へ行ったか…それも「メガネ」の学校!?…簡単な事!就職先に「各眼科」と記されていたからであった。眼科で白衣!?呼ばれ方は「先生」でしょう!と勝手にムフフしていた私だったが…。聞き慣れない専門学校だったが、親は文句一つ言わず通わせてくれた。何を隠そうこれも両親の策略通りであった。何故か!?全国何処にでも「眼科」や「メガネ屋」は有る。食いっ逸れる心配が無いからである。もちろん、長野でも…!


私の青空

上田市・69歳女性

 「このスーパーがあるし、日本語が通じるから暮らしていけるわね」広い田んぼの真ん中の出来たばかりという、しおだ野マックスバリューの前に立って私はつぶやいた。

 7年前に主人の勤めの終わるのを待って海辺の街からこの地へ越してきた。梅雨のあけた7月、はじめて買い物に出たこの日のことを私は忘れない。

 乾いた空気、青い空、ぐるりと山に囲まれた土地、広い駐車場、外国へなど行ったことのない私だったが、まるで見知らぬ外国へでも来たような印象を受けた。親戚縁者友人とてひとりもいない地で、ひっそりと隠者のように暮らそうと私たちの晩年の姿を描いてきた。

 神畑(かみはた)と呼んでいて来てみたら神畑(かばたけ)だった。土地勘のない私たちは塩田平を車で駆って、わが家へたどり着くことが出来ない不安にかられたことが度々あった。

 そういう時に限って畑にはひとっ子ひとりいない。夕闇は迫りあせるばかり、あらぬ方向へと車を走らす。これといった目印の建物もない。野道がただ続いていた。

 二十数年前に別所温泉へ来たことがある。北向観音を拝んだ。境内に白秋の碑があった。白秋が眺めたであろう桂の木の老木を私も眺めた。

 そもそも別所温泉への旅は、まだ出来たばかりの信濃デッサン館を紹介していられた窪島誠一郎氏の新聞記事からはじまる。前山寺からの塩田平の眺めのすばらしさにも触れていられた。大黒様の手作りといわれるおはぎを頂き、薬用人蔘の囲いなどもはじめて見た。長々と砂利道を歩いた記憶がある。あの日から忘れがたい地になった。

 2月の槐多忌には欠かさず参加している。信濃デッサン館の前庭、あかあかと天をも焦がす炎に包まれ不思議なものがひろがる感動、法要、宴の後、漆黒の暗の中を夭折した人のいのち、死と死後の世界を思いながらひとり歩いて帰る。

 塩田平の真ん中をとことこよぎる電車の窓明かり、まるで宮沢賢治の「銀河鉄道」の幻想的な世界だ。凍てつく空の満天の星を仰いで、この一夜があるだけでここへ来てよかった、夢はかなえられた、これが信州だよとわが身に言いきかせる。


牟礼の里に一目惚れ

上水内郡牟礼村・59歳女性

 「決めた!」
 まさに即断即決。全てが回り出す瞬間だった。

 新天地「牟礼」に一目惚れした私たち。あの日から、足掛け5年が経っていた。
 
 訳ありIターン移住者の歳月は、永いような、短いような……そんな思いと共に明け暮れている。
家人も私も、東京生まれの下町育ち。田舎暮らしへの憧れはあったものの、まさかの移住が実現してしまうとは。
イヤ、そうしなければ、解決できない問題を、私たちは抱えていたのである。

 Iターンを決意する、2年前の真夏のことだった。
 当時、芸大日本画家博士課程2年時の長男が、27歳の若さで、心不全のため急逝したのである。
まだ画学生であった息子は、自らの“いのち”の証しである、五十余点の本画と、多くのデッサン、スケッチ、そして詩文、散文の類いを遺したまま、逝ってしまったのだ。

 狭くて湿気のある柴又の自宅で、日本画作品を保管することは、その大きさと量を考えただけでも、到底無理なことであった。
 難問に頭を痛める日が続いていた。

 その上、我家には84歳になる高齢の義母がいる。斯く言う私は、その頃はまだ、小さな書塾ではあったが、生徒さんとの永い関係を持つ立場にあり、あれやこれやと、クリアすべき事が、目白押しの状況と言えたのである。
だが、それ等の全ては、積極的に動かなければ、前に進まぬことばかり。現実的な問題は、誠意を尽くして対応しよう。意を決して、事を運ぶ毎日となった。

 家人の勤めに、区切りがつく時期を目標に、いよいよ家探しが始まった。
長野県は飯綱高原に、柴又からの古い友人が、10年以上も前から、ペンションを営んでいた。毎年欠かさず、家族で訪れている。

 四季折々の、自然の移ろいはもとより、雪深く、厳しい北信の冬にも、度々遭遇していた私たち。山暮らし、田舎暮らしの含蓄ある体験談を、折に触れ友から聞いてもいた。


信州を第三の故郷として

茅野市・60歳男性

一、「Iターン」プロローグ
 私と信州との出会いは四十年も前二十歳の頃である。初めての就職先・京都の職場の仲間と、志賀高原や白馬を約1週間のスキーツアーをした。当時、私のスキー技術は未熟であったが、故郷の北陸や関西では味わえないパウダースノーで、スキーが一気に上達したように思えて、忘れがたい思い出となっている。

 本格的な山歩きもやはり信州がスタートであった。蝶ヶ岳・常念・大天井から槍ヶ岳縦走の途中、早朝出会った7色の雲海に夢心地となり、飛び込んで泳ぎたいような衝動に駆られたものである。
東京に転勤し、結婚してから暫くは山とも遠ざかっていたが、再び夫婦で山に足を運んだのは、妻の職業病リハビリを兼ねたものであった。同じ金融機関の勤務であった妻は重い頸腕障害で休業し、速効の治療法もなく体力も衰え職場復帰も困難と思われたが、リハビリとして東京近郊の高尾山や陣馬山から始まって、白馬・燕・鹿島槍などに二人で出かけた。

 ウインターシーズンは蓼科を中心に、子供を連れて毎年スキーや温泉など、信州の自然は私たちに癒しと明日へのエネルギーの源泉となっていった。「歳をとったらこの辺りに住みたいね」などと夢を語っていたが、当時それが現実になるとは思ってもいなかった。

二、夢を現実に――ペンション営業始まる
〜想いせば浮かびて止まず友の日々夕陽の里に4トン車着く〜
(1996年十月引越挨拶)
 思わぬ展開から夢は現実となった。当時、私は会社の55歳定年を1年後に控え、妻はリハビリの成果が上がり職場復帰していたが、やはり完全な体力の回復は難しく、お互い加齢とともに第二の人生を考える必要に迫られた。厳しい金融の職場で身も心もすり減らし、そのまま続ければ定年後の生きるエネルギーは何も残らず、健康な老後は見えてこなかった。

 そんな折、ペンション開業のセミナーを覗いたのがきっかけで、2人で出来る仕事としてペンションの営業に心をひかれた。軽井沢や裏磐梯などの候補地も捜したが、やはり心の故郷となっていた蓼科に決めることとし、二人揃っての辞表提出、そして晩秋の引越となった。40年間のサラリーマン生活から未知のペンション開業へ ――新しい生活に飛び込んだ2人を、冬を前にした蓼科の厳しい冷え込みの第一夜が待っていた。


Iターン奮闘記

小県郡東部町・36歳男性

 信州という土地は、全国でも北海道を抑え常に1位となる、Iターン目的地の一つであることは、一度Iターンを考えた人はわかっているかと思われる。白馬の山並み、軽井沢の町並み、そして白樺湖や車山や志賀等の高原……誰もが山に、川に、高原に幼い頃や空想での思い浮かべる。それでいて北海道や九州と違い交通網の整備で関東、中京圏への時間距離が縮まり住みやすさを感じるところではないでしょうか?私のIターン人生のスタートはそんな信州とは無縁で田舎暮らしを目指すところからのスタートでした。東京、横浜で15年ほど過ごし、途中3回の転職を経て、新橋、虎の門、青山での勤務でした。今でこそ新宿も都庁を構え都心としての完全な機能となっておりますが、私がいた初期の頃は、高層ビルこそ乱立し始めてもまだ都庁とか全く形をなす前でした。そのような中、日本の中枢を司る官庁街がある霞ヶ関近辺(新橋、虎の門)という地域は、朝のラッシュは殺人的であり、またお昼を食べるのも限られた時間にしては集中型であり、ときにはまともに食べられないこともしばしば……好きなお酒もちょっと7時を回ると予約無しでは入れない。そんな状況に疲れ始めておりました。そんな中でも、多くの仲間に支えられ毎晩愚痴を語り合う為に、空いている居酒屋を渡り歩きある意味では都会の満喫をしていたのではないかと思います。しかし、そんな光景も年を取るにつれ同じ酒量でも身体の受付が悪くなると、終電で寝過ごすこともしばしば、折り返しのタクシー代も結構な額になりました。バブル期は全くつかまらなかったタクシーもバブル崩壊以降は簡単につかまるようになり、運転手との会話は脱サラや、職にあふれた人たちがタクシーの運転手となり歩合での苦労話が多かった記憶があります。

 振り返り自分の仕事を考えてみました。旅行代理店の営業職という仕事は、業績が伸びていればそれなりに楽しい仕事でした。順調に役職も上がり、それなりの責務もついてきてそんな中でもやりがいを感じておりました。しかしながら、ふと考え始めたことは、この営業の仕事でどこまで数字を伸ばせ続けられるか?大きな壁へとぶつかったのです。一生この仕事で、一生右肩上がりの成績を望むのはおりしもバブル崩壊で難しいのでは……そんな中、平日は群衆にもまれ、土日はもともと好きであったアウトドアに、夏はキャンプや釣りに、冬はスキーやボードに日ごろの鬱憤をはらすかのように、行きまくっていました。しかしその目的地への行きかえりは結局渋滞で何十キロ、また横浜というところはスキー場には遠く、やっとで到着したスキー場が今度は混んでいてとても満足に行くことはなく、徐々に疲れだけがたまる休日へとなっていったのです。

 


信州へ来てから、ふり返って

北安曇郡美麻村・56歳女性

 私は18歳迄、大町市に住んでいました。高校卒業してすぐ上京し、44歳の時、市の分譲地に応募して6人家族で参りました。職業安定所や市の臨時職員募集、各会社の方々が協力的でした。車の免許、勤めるにあたってのそれなりに資格があると有利でしたので、私としましても出来る限りのことをしました。ただ残念なことにまもなく離婚しましたので、新築の家を後に2人の子供を連れて市営の母子住宅に入りました。私が極度の貧血で入院した時、病院と市の連携プレーに依り、高校生の娘と5歳の子の面倒を、福祉の千里先生という方が見て下さいました。大町市では、嬉し泣きを大きくしたことが4回ありました。「入院しても子供のことを心配せず、しっかり体を丈夫にしなさい」と言われた時。就職が決まって現金収入を確保できると思った時。20万のボーナスを貰った時。いずれも子供を育てられると思うからです。そして、すでに二度の離婚を経験した私を、48歳の時、実は3人の子供と共にお嫁にもらってくれるという人が現われたことです。兄が何かと国木田独歩の好きな言葉「元気」の如く、明るく頑張れと励まし続け、毎月2〜3万送ってくれてましたが、まさか、一度も結婚したことのないきちんとした男の人が、そんな風に思いやりをかけてくれる人に出会えるなんて、思ってもみませんでした。

 48歳の時、子供と共に、2メートル位積もっている雪景色の中、嫁いで来ました。美麻村は標高900メートル、山々に囲まれ、空気と水のおいしい所です。我が家から爺ヶ岳、鹿島槍、五竜、唐松岳、白馬三山と一望出来ます。写真家、絵かきさんが、よく来ています。ちょっと我が家を開放して、コーヒーの一杯、おやきの一つもさし上げたいなと思います。それで、そういう時だけのお店を開こうかと主人にいうと、「好きなケーキだのパンだのアイスクリームだのもそろえて、みんな自分で食べちゃうから駄目だ。」などと言います。山を素晴らしいと思って来る人をみると、高校時代に感激してみた田淵行雄さんの写真展を思い出すのです。

 確か文化祭で、貸して下さったのだと思います。槍ヶ岳の横に月があるのは、印象的でした。豊科インターから少し来ると田淵行雄館があるので、是非ゆっくり見に行きたいと思います。


信州の四季に魅せられて

南安曇郡穂高町・65歳男性

還暦を迎え故郷に帰りたい
 信州で生まれ育った私都会に出てサラリーマン生活も38年定年となり避ける事が出来ない年齢となった。これを機会に故郷に帰り老後は妻と2人のんびりとした生活が夢で、退職数年前より計画がはじまった。何処に住むのか、住む家、家族の意見、資金、私の計画等、安曇野にいる妻の兄弟にも相談する、土地はある分けてやるとの答え、そしてその言葉に甘んじて帰る決心。家族も了解、この時点から将来に向けて夢と入念な計画が始まった。資金については、退職金と少々の蓄えで賄える範囲無理はしない。そして静かな環境のなかで第二の人生いきいきと暮らしたい。こうして準備期間中に土地の測量分筆も妻の実家でやってもらい、電気、ガスには問題がなかった、水道の件で問題となった、弟に依頼をして役所に出向き相談してもらい、その結果解決、そして宅地の件も農地委員会に申請し定年前に書類登記等も完了。

安曇野へ引っ越し
 住宅が出来る前に、妻の実家資材置き場に事務所として作られた洋間8畳と4畳があり借りる事にした。この場所はこれから建てる敷地の近くにある。南側は観光バスも入れる県道も有り山林が美しい、回りの景観も良い、この周辺は自然もそのまま、私が望んでいる場所である。引っ越しに必要な物は早めにそろえ、一部の荷物は神奈川県の実家より運んで、仮住まいの生活が始まった。今までの生活が当たり前と思っていた妻も、この住宅には何の設備も無い、勝手場は手作り、プロパンガスと卓上コンロ、電気は自家発電設備があったが、夜のみ運転、不自由、不便、そして飲み水は一時的に、タンクにくみ置き想像も出来ない戦時中のような体験で始まり、何もかもが家が出来るまで我慢と辛抱でした。

熊笹と雑草の刈り取り
 宅地となる場所は、どこから手をつけて良いのか熊笹と雑草の荒れ地、草刈が私達の手で始まった。そして一週間後、あちこちに刈り取られた草の山も出来、これを処分するのに燃やす以外方法が無い、燃やすにしても量も多い、天気が続き乾燥している。山林が近いので要注意である。そして雨具を買い雨降りに燃やす事にした。雨降りの作業は汗もかく、目に雨も入って更に足回りも悪い。慣れない作業そして重労働も続く毎日、1日の作業は早めに切り上げ、近くの温泉でゆっくり汗と疲れをいやし、休日を時々とりながら信州の素晴らしい自然、美ヶ原にドライブを楽しみ、ストレスや疲れをためない様にした。


えにし

茅野市・50歳男性

 あと3キロという小さな表示板を過ぎた。上りでもなし下りでもなし、楽走なこの残り3キロの道程が、私と妻にはとてもキツかった。引き摺るような足の運びは、歩きと変わりないだろう。妻の荒い息遣いを感じるが、私も同じだった。

 50になった2人が、湖周の走りをもうすぐ終えようとしている。走り始める前から曇っていた。降られてもしょうがない覚悟でスタートしたが、最後まで持ってほしい。
「歩こうか?」、首を振って「よけい疲れるから嫌」。歩くと、その時は楽になるが、また走り出すのに力の消費を大きく感じる。

 以前はこんなジョギングロードはなかった。この広い湖が冬には全面結氷し、スケートをする人、ワカサギの穴釣りを楽しむ人がいた。その光景は今も鮮明に想い浮かぶ。

 人工のなぎさを作ったり、嵩上げの整備をしたりして環境は良くなったが、近年はそういう光景をほとんど目にしない。地球温暖化の影響かなど少し考えてしまう。

 こちらに来た頃、信州が日本のどこに位置するかも知らなかったほど若く、無知人だった。地図上で、大阪から上は中学の修学旅行で東京方面に連れて行かれた記憶はあるが、小さな私は景色も堪能できなかったし、疲れた事しか覚えてない。どの宿でも、お風呂は5分とやけに短く、常に先生の「早くしろ!」と言う怒鳴り声が飛んできた。極め付きは、グループごとに部屋に分かれ、中から鍵を掛けられてしまったことだ。

 「開けろ!」と言いながらドアを蹴っ飛ばしたら、「ありゃりゃ」足が減り込み、誤魔化しようのない大きな穴が。
先生曰く、「旅行中は何があっても絶対に叩かん、しかし…」。そう約束(脅か)してたはずが、皆の前で往復ビンタを喰らったから、痛さより格好悪かった。よって関西より上に良い印象はない。

 そんな私の唯一の楽しみは、貸本屋やたばこ屋のマンガ本を立ち読みすることだった。授業中もマンガのことばかり考え、時には眼を盗んでマンガばかり描いていた。似顔絵を描いては応募し、掲載される悦びを知ると、その世界があるのに気づいた。


新天地

東筑摩郡四賀村・38歳男性

 信州に移り住んで、もう13年が経ちます。この地に来て初出勤の時、こんなにのんびりとした風景の中を通勤できることに幸せを感じながら、買ったばかりの中古のジムニーで田んぼ路を走ったことを今でも覚えています。

 現在38歳で、妻と小学校4年生の娘との3人暮らし。生まれは横浜で、小・中学校時代は野球に、高校時代はラグビーに没頭、テスト休みになれば、試験勉強などそっちのけでマージャンをしたり、バイクで海に遊びに行ったりしていましたが、自分なりには充実した日々だったと思います。当時の夢は、体育の教師になることで、浪人もしましたが、家庭の事情もあり進学を断念、せめて人と関わる職種につきたいと思い、食品会社に営業として就職することにしました。でもその頃愛読していた、五木寛之の「青春の門」に出てくる主人公の、熱い生き方に感銘を受けていた私は、「自分の人生は自分で切り開いてやる。」と燃えていたので、「いつかは必ず脱サラして、自分が本当にやりたい仕事を見つけるぞ!」と誓いを立てての入社だったのです。

 サラリーマンになると、稼ぐために一生懸命働き、休日には、仕事のストレス発散のために趣味に精を出し、海に山にとガムシャラに動き回りました。その頃熱中していたのがスキー。そしてそれが縁で、同じ会社のバイタリティーあふれる今の妻と出会い、意気投合。会社の休みは水曜日と日曜日。私達は、寝る間も惜しんで毎週2回の日帰りスキー旅行を敢行し続けたのでした。憧れの八方尾根スキー場までは片道250キロメートル。今思えば若かったとは言え、よく体力がもったものだと感心するぐらいのハードスケジュールを、無我夢中でこなしていたのは、自分自身が納得できる「何か」を見つけたい、今しかできない、自分にしかできない「何か」を実現したい、こんな気持ちだったからだったように思えるのです。

 その彼女と25歳で結婚。いつまでもこんな体力もお金も続くはずがないし、でも生き甲斐であったスキーは止められないし、と、悩んでいる時、まるで一休さんのトンチのような、素晴らしいアイディアが頭に浮かんできたのです。

 「そうだ、スキー場のそばに住もう!」
そしてこれが私のIターンの第一歩となったのです。


信州に生き儲けを見つけた

東筑摩郡四賀村・51歳男性

 「今朝、鶏の卵何個あった」「もうヤギの乳搾ったか」「今年の米、去年のよりうまいな」我が家では毎朝こんな会話が交わされる。今、金さえ出せばなんでも手に入る日本である。消費一辺倒、物、金の拝金主義に振り回されるのではなく、地に足をつけた生活をしたい、この考えがいつしか私を信州の山里へと向かわせていた。

 私は東京の郊外の八王子で生まれ(1951年)育った。東京とは言え、その頃は南多摩郡横山村と呼ばれていた所であり、多摩丘陵の懐に当たる地域であった。古くは万葉の時代、牧(今で言う牧場)として使われ、万葉集にも『赤駒を野山に放し猟りかにて多摩の横山歩しゆか遣らむ』と詠われた地でもあった。

 そこには里山があり、それに囲まれた谷地田が普通に見られた。雑木林にはカタクリが咲き、ギフチョウが舞い、アオゲラが飛んでいた。川は自然な流れを描き、河畔林は豊かな植生を作り魚たちに木陰を提供していた。私はこの自然を特異なものとしてではなく、ごく当たり前のものとしてみていた。そしていつまでも変わらないものだろうと思っていた。ところが、この自然の中に40万人多摩ニュータウン構想があったのである。(多摩市・稲城市・町田市・八王子市にまたがる三千有余ha・1967年、東京都構想)近隣にはすでに分譲や賃貸の住宅が出来上がっていた。高度経済成長に拍車がかかった時期である。しかし、まだ我が家の周りには豊かな自然が残されていた。

 私は結婚と相前後して(1980年頃)ふとしたきっかけで、国立公園、尾瀬のボランティア・パークレンジャーをやることになった。仕事の合間を縫っては尾瀬に出かけごみ拾いや自然解説をした。一方で、はるかな尾瀬は守れても足元の自然が守れなければと地元で「オイコスの会」というのを立ち上げ自然観察会をやり始めた。皮肉なもので、それに呼応するかように周辺の開発が始まったのである。私は地元の自然保護団体や障害者グループ、生協などと連携して『柳川掘割物語』の上映や近自然河川工法(国土交通省では多自然型河川工法と言う)の講演会をやるなど東奔西走した。地元の川の改修にあたっては、東京都や八王子市に請願を出したり陳情に行ったりしたが、理解が得られずつくずく自分の力不足を感じた。


私のIターン

松本市・58歳女性

 私がIターンに、信州を選んだのは、大自然の懐にいだかれて、清々しく、人生を生きる、人々との出会いがあったからです。

 北から南へと、慌ただしい出張生活が続いていた日々、心身はすっかり疲れはててしまい、いつの頃からか、静かな場所でのんびり暮らしたい、と思っていました。そして、その場所を「奈良」と考えていたのです。奈良の友人と話す時、のんびり、ゆったりで、奈良時代の文化が、言葉として今生きているような気分を味わえ、気持ちがリラックスするのを覚えました。街全体が好きになり、ゴマ豆腐がおいしいなどという、たわいない理由を付けながらも、この土地に住みたいと、楽しみにしていたのです。ところが、……

 ある日、近くに住む友人にバッタリ会い、開口一番言われた事は、「仕事!辞めたほうが、いいんじゃない!」「病院に行くのが嫌なら、私の松原湖の家に行く事ネ!」と、言い去られたのです。

 当時、生意気にも数人で会社を立ちあげ、半年が過ぎたばかりでした。新しい業種だったので、都心だけでなく、県外にも出かけ、社内では夜も仕事が続き、終日人の目を意識した状態でしたが、それでも勤め仕事は、これで最後にしようと思っていたので、猛烈サラリーマン同様に働き、職場の寝泊りも耐えていた、そんな折、偶然友人に出会った訳で、彼女の言葉が、しばらく頭の中にありました。考えていると、“ボロボロの自分”が浮かんでしまい驚きました。とはいえ、仕事を辞めて、再び復帰できるのだろうか?健康保険もなくなるし、収入もなく!等々沢山の不安が湧き起こりました。でも一方では、「本当に満足しているの?」「このままでいいの?」と、内側の声が聞えたので、具体的な目的ももたず、ただ自分に“休暇”をあげよう、と決めて、ダンボール箱に、カメラ、絵具、本などをつめ、晩秋の松原湖に向かいました。

 この地で2ヶ月間すごし、わかった事は、意外にも、人が恋しいと思った自分です。犬が来て人が居るのを知り、訪ねてみたり、郵便配達員の姿を待ち望んでいる。強がっていても緊張が解けると、はじめてその状態だった、と知らされたりしました。このあと暮の松原湖を出て、雪深い信州・菅平に、知人の山荘を借り、一年近く滞在していました。


生きて走れる愛がある

東筑摩郡四賀村・47歳女性

 仏壇がない我が家ですが、いつも花を絶やさず犬の写真が貼ってある一角があります。その写真の1枚がエータロウです。エータロウは阪神淡路大震災があるまでは兵庫県のある町で西脇さんという女姓に飼われていた犬でした。エータロウはドッグレスキュー(捨て犬として処分される犬を救う活動をしている人たち)の手で松本へ、そして我が家へ来ました。7年間いろいろな出来事があったエータロウでしたが、病気には勝てず、今はかわいがってくれた西脇先生と一緒に天国で暮らしています。

 エータロウとの出会いも私たちが信州に移住を決意しなかったら巡り会うことのない数奇な運命だったと思っています。

 エータロウは仲間14匹と一緒に仲良く暮らしていました。エータロウのご主人は西脇さんというおばあちゃんのお医者さんでした。大所帯だったのでお手伝いさんがいて面倒を見てくれていました。中でもエータロウは賢かったのでとてもかわいがられました。エータロウはこの幸せなときがいつまでも続くと思っていました。

 ところが1995年1月17日早朝、突然、地の底から突き上げる衝撃に心地よい眠りを覚まされました。そうです、これがあの阪神淡路大震災でした。西脇医院もガラガラと音をたてて崩れていきました。エータロウとなかま達も瓦礫の下敷きになり、何匹かが犠牲になりました。この時エータロウの愛する西脇先生も亡くなりました。
エータロウと生き残った仲間は西脇先生のそばに寄り添い「クゥーン、クゥーン」と悲しみの叫びをあげましたが、西脇先生は生き返るはずもありません。

 あちこちでサイレンが鳴り、人々の泣き叫ぶ声が聞こえます。犬のエータロウにも大変なことが起こったことだけは理解できました。普段は動物にやさしい人でも肉親を失い、家を失った状態では冷静な判断は出来ません。震災地区は修羅場となっていました。「人間が優先だ」「復興のじゃまだ」と多くの犬たちが救護センターに収容されてしまいました。その中にエータロウもいました。救護センターにはケガをした犬や感染症にかかっている犬もいて、震災のショックで次々と弱っていきました。エータロウも数日までの暖かな家を思い出しながらも明日をも知れない境遇に不安がいっぱいでした。


夢かなえIターン安曇野

南安曇郡穂高町・51歳女性

 都会育ちの50代の夫婦、子供がいないせいか、いつまでも夢を追い求め、気がつけば夢が現実となり、憧れの地「安曇野」にログハウスを建て、念願の犬との生活も、2回目の冬をむかえ、少しは冬に対しての心のゆとりも感じる今日この頃を過ごしています。

 都会でのマンション生活、一歩外に出るとなんでも揃う、便利で人工的に明るい世界。夜中でも眠ることの無い都会、そして途切れる事の無い車の流れ、子供の時は都会に憧れ、都会の波にもまれて成長し、昼も夜も無い生活に、いつしか疲れはて、無感動、無気力な毎日を、ただ惰性で過ごしていましたが、ここでの生活には、都会の喧騒も無い静寂な世界。まさに日が暮れると眠りに就いて、日の出と共に起きるという感じ。夜に電気を消して床につくと周りが明るい。降り注ぐような星そして、月の光が、こんなにも明るいなんて、まったく知らなかった。そういえば、都会はネオンの明かりや、車のヘッドライトで、いつもキラキラしていて、じっくり夜空を見上げることなど無かった。

 初めての冬、ある朝カーテンを開けたら、一面の銀世界、窓が大きなキャンバス。思わず息を呑む。樹氷、足跡のついていない雪道を踏みしめる。雪の降らない関西では味わうことの出来ない感動である。
銀世界に包まれていると、意外と寒さを感じない、かえって雪の降らない関西のほうが、底冷えがして寒さが厳しいと思う。

 松の木のきしむ音、また枝に積もった雪が、静まり返った空間に、しな垂れ落ちてくる。また住み始めた早々に、雪の重さに耐え兼ねた松の木の枝ごと、屋根に落ちてきた時には、想像もつかないことだったので、本当に何事かと家から飛び出したくらい驚いた。

 雪かき、舗装している道のアイスバーン、かつては雨降りでも、ヒールの靴だけで充分だった今では、長靴が必需品。散歩している犬たちも、何だか歩きにくそうだ。都会では地道が、全くといって良いほど見当たらない。すべて舗装、そして舗装しているのが、普通だと思っていたが、今の生活において、地道の良さ、必要性を感じてしまう。
寒い寒いと思っていても、葉の落ちた枯れ木のような細い枝には、可愛らしい新芽が日々ふくらんで、季節の移り変わりそして「生」への躍動が感じられる。


ふるさとに残した父母のもとへ

上伊那郡箕輪町・61歳女性

 自然環境に恵まれたこの地の良さなど人ごとのように思っていた私であった。生まれ故郷信州伊那谷にUターンして移住するなどと、誰が考えていただろうか。

 教職時代は横浜の地で子ども達へ情熱を注ぎ、忙しさにかまけて正月と盆の年2回の帰省。煩わしい田舎の付き合いをできるだけさけて、そそくさと故郷を後にする。無限の可能性をもつ子ども達との生活も指導も充実の時期でもあり、父母の心など汲み取るどころではなかった。こんなにホッとできる素敵な故郷をかえりみずに……。

 予期せぬ出来事を誰が想像していただろうか。一変したあの日、平成3年7月。突如、長兄の交通事故による他界。跡取り息子を失った両親の落胆したあの姿を昨日のことのように思い出す。母の途方にくれた姿、子ども3人残して旅だった兄、兄嫁の憔悴しきった姿を。

 丁度、夏休みに入る時であったため、その後も両親の側にいることができた。滞在中、両親や兄嫁との語らいの中で、「私に今できることは何だろう。やらなくてはいけないことは何だろう。」と思いを巡らしていた。確かに私の存在をみんなが必要としていたことを肌で感じながら。

 2学期も始まり、両親の元に月1回帰省する生活が始まった。私の帰省を心待ちにする父母。その度に心なしか年老いているのだ。「待っていたよ。有難う。」言葉にはしないが待ちわびていた様子が手に取るようにキャッチできる。1泊後、後ろ髪を引かれる思いで家を後にする度、言い知れぬ寂しさが込み上げ、お互いの心に透き間風が通り抜ける。こんな様子を汲み取ってくれるかのように、故郷の青い空や、おいしい空気が別れの寂しさを癒してくれた。遠く見上げる中央アルプスの峰々が、「帰省を待っているよ。」と励ましてくれているようだった。

 帰路は、両親の寂しげな顔が脳裏から離れず、「このまま現在の仕事を続けていいのだろうか。」とか、「せっかくの教師の道をここでやめることはできない。」等、同じパターンの感情がどれほど交錯したことか。中央高速道から目に入る八ヶ岳の山々が、「結論は急がなくてもいいよ。」と悩む私の心を後押ししてくれているように思えた。


信州で生きていきたい これからも……

小諸市・42歳女性

 平成九年、私は静岡市で、夫と子供2人と暮らしていた。夫は父の介護をするため、前職を退職。その後、自営業を始めようとしたが断念し、再就職先を探した。が、40という年齢が一番のネックになり、希望する食に関する仕事は見つからなかった。

 ある時、Iターン求人誌を見つけ、職種を最優先し探したところ、ある一つの会社と出会い、私たちは平成10年4月1日、信州小諸にIターンした。そこは、牧場やレストランを持つ、あるナチュラルチーズ製造会社だった。実は、夫は動物が大好きで、大学の農学部畜産科を卒業後、ハムメーカーで品質管理、製造、開発などに携わり、その後、転職してホテルに勤め、レストラン、企画、宴会を経験した。今度の仕事は、今までの経験がいろいろと生かせそうで、楽しみだった。

 今思えば、夫は人並み外れて生き物が好きだったので、行き着く所は自然の豊富な所、すなわち田舎しかなかったのではと思う。つまり、動物が生き生きと過ごせる所、それが私たちがIターンした信州だったのだ。

 夫は、みその醸造をやっていた祖父母の血をひいているせいか、物作りがとても好きで、ナチュラルチーズという発酵食品に対して大きな魅力を感じたようだ。夫にとって、乳酸菌やカビが生きているナチュラルチーズを扱うことは、動物をかわいがり育てることと等しかった。手をかけてやらなければ死んでしまう赤子をかわいがるようにして、仕事にのめり込んでいった。「カマンベールチーズの白カビの生え具合を見ながら、一つ一つ返していくのが、たまらなくかわいい。この仕事と出会って間もないが、これが天職ではないかと思う」と、私に話しているようすは本当にうれしそうだった。

 そのうちに子供がもう1人生まれた。この会社に骨をうずめる覚悟で、家を建てることにした。
Iターンして二年目の秋、不幸が訪れた。家を建てるので地鎮祭を執り行ったのだが、その1週間後、夫は社長に首を宣告された。お先真っ暗になった。

 平成12年4月、家は予定通り建ったものの、入居した時、夫は無職だった。サラリーマンは向かないのではと悩み、自営業を始めようと思ったが断念。
その後、ある会社に再就職したが、2ヶ月で退職。


信州人になった私 ユニークな人たちと美しい自然に囲まれて

茅野市・52歳女性

 私が信州に移り住むことになるきっかけは、1993年8月、富士見町の友人を訪ねた事でした。それまでも信州は大好きで、五年程前から、木曽の自然村へ子供達と夏休みには一週間ほど遊びに来るようになっていましたので、空の青さ、空気のおいしさに魅力は充分感じていました。けれども、今は子供たちの進学など考えたら、こちらで暮らすなんて無理無理…「でもリタイアしたら子供たちに田舎を作ってやるのもいいかもしれないね。孫達が休みになるとやって来るなんてね。」などと話もしていました。そんな時の、友人宅訪問でした。そこでなんと、一番都会好きに見えた末娘が、「私こんな所で育ててもらいたいよ。」と言い出したのです。私たち夫婦のすばらしは、こんな時の決断力。「あの子が言うんなら行っちゃおうか。」それで決まり。富士見の友人は、良い所だから来いと言うし、「土地探して」の電話を入れて、自宅を売却すべく不動産屋さん回りを始めました。一番厳しい季節に見に行こうと、年明けの2月に土地探しにやって来ました。そして十月には、ここ茅野に引っ越して来ました。資金の問題なども考えたら居抜きの田舎家を手直しして住むの良いかとのもくろみは上手く行かず、当初の計画通り土地を買う事にしました。脱サラ主人が、ログビルダーになるための練習台としての、ログハウスで我が家を建築する事にしました。親切な不動産屋の方に巡り会い、ログハウスキットの着くまでの仕事、家の出来るまでの借家、といろいろ手配していただけました。

 同じ集落内にある借家は築70年は軽く越えている天井の高い田舎家。囲炉裏も有るし、昔は馬をつないでいたと言う場所もあって、まるでタイムスリップしたようでした。大家さんは王滝村に家を建てて、もう帰る気は無い方。畳を替えて、キッチンセットも新しくして下さいました。いじっても良いと了解をいただき、土間には砂利を敷きました。ベニヤ板を敷いて2台あるグランドピアノの1台は、梱包を解かずにそこに置きました。もう1台は、ちょっとは弾きたいかなと、梱包を解きまた。そのピアノの脇を通って、外にあるトイレに行きます。なんだかワクワクの生活が始まりました。


曇りのち快晴

長野市・37歳男性

 東京では会社の窓から隣のビルしか見えない。信州では遠くの景色が良く見える。
東京は人が溢れ、仕事中に一人でゆっくりできる場所は会社のトイレくらい。信州では一歩会社から飛び出せば、至るところで自分の空間を創ることができる。

 東京ではどうしても他人や組織のペースに支配される。信州では努力すれば、自分のペースが維持できる。
往復3時間もの通勤時間は人生の浪費だと思う。
最近、長野市を始め、高層マンションの建設が増えてきた。景色を遮るような建物は増えてほしくない。
新幹線や高速道路網が整備された今、信州はこれ以上都会化する必要があるのだろうか。

 昭和62年4月、都内の大学を卒業して外資系コンピュータメーカー(本社東京都港区)に入社した。金融機関向けにコンピュータ・システムの提案営業を行う部門に配属され、やりがいのある仕事であった。ただ、銀行のシステム部門と言えば昼夜分かたぬ運営を行っているもので、特に大手都市銀行を担当していたことから、肉体的にも精神的にも徐々に疲労が蓄積し、入社から三年ほど経た頃に体に変調を来すようになった。いわゆる自律神経失調症と大別される心の病である。
特に多忙な職務に於いて、千葉から都内への片道一時間半の満員電車通勤に対する抵抗感が強く、体が環境を拒み始めていた。

 思い切って転勤希望を出したところ、所属部門長が若い頃に一人で赴任した経緯から、強い思い入れのあった長野支店(長野市)への配属を命じられた。この背景には、私の両親が上田市と戸倉町の出身であることを知っていた上司の配慮もあった。

 本社勤務から地方への転勤命令は、通常落ち込むものとされており、そうではなかった私は、周囲から不思議がられた。
平成3年1月、新婚九ヶ月の妻とともに生まれて初めて暮らす地、信州に転入した。
当地の親戚がいない妻にとっては、全く初めての地であった。
通勤地獄のない新天地での生活は、公私ともに充実したものであり、都内に本社を置く外資系企業の給与水準が高かったこともあって、経済的にも比較的恵まれていた。


信州・東京ハーフターン物語

東京都世田谷区・70歳男性

1 移住の経緯
 信州は、自然が豊かなので、昔からあこがれの土地であった。
 少年時代は、どこへ行っても、未だ里山の風景に容易に接することができたし、少なくとも高度成長期前までは、あちこちに多くの美しい自然が残っていた。

 経済の発展に伴い、日本の自然は徐々に破壊され、信州でもその洗礼を受ける埒外とは行かなかったが、信州の自然が奥深いものであったことに加え、信州人の自然に対する畏敬の念と、教育水準の高さとがこれに抗し最小限に止めているように思う。
 二十歳を過ぎた頃、美ヶ原や安曇野からの北アルプス連峰を見た私には、大自然の恐ろしさが胸に迫り、目がくらみ、心の底が洗われたことを今でも思い出せる。

 東京での会社生活の終わりに近い、バブル経済の弾けた頃、世の中が少し変ではないかと感じた。高度成長時代の全国に広がった急激な都市化と自然破壊の波が、経済優先の疲弊と社会の混乱を招いたことは事実で、それを少しでも和らげる努力なり対応なりを考えなければと思っていた。

 都内の幹線道路に近いところに住んでいたため、家内は早くから「ぜんそく」を患い、空気のよいところへ行く必要もあった。将来のこと、家族のこと、自分のことを考えた時、定年後は自然の豊かな場所に生活の重心を移したい、そして自然の懐に入ってみようと考えた。自然豊かな信州で土に親しみ、鳥と会話し、花や作物を育て、空や月や星、森や水や草に接して大自然の恩恵を享受することを決心した。

 しかし、東京や横浜には親、子供、孫がいるし、初めから完全に移転することが無理なので、定年後は毎月とか年何回とか、東京と信州とを行ったり来たりするハーフターンを選択した。

2 苦労した話
 その後定年前に、佐久平南西の小高い森の中に住居を取得し、初めは当地の生活に慣れるため、土日、祝日を利用して時々信州を訪れた。年とともに滞在日数も増え、定年後は本格的に滞在することが多くなり、森での日常生活ができるまでに慣れてきた。


人との出遭い、そして信州

南安曇郡堀金村・61歳男性

 我が人生を振り返ってみると、岐路に立たされたその時々に人との出遭いがあり、結果的に運命を左右したように思えてならない。

 昭和35年に山口県下関市の高校を卒業し、地元の大学に合格していたのだが、家の経済状況は、大学は無理との結論。最初の岐路に立たされた。教師になる夢を断念、舞台役者の道を目指し上京したが、第二希望的選択だったからあっさり挫折。故郷へ舞い戻った。世は70年安保の時代。高校演劇で出会った母校の大先輩との再会が地方演劇活動の道へと駆り立てた。故郷で落ちつきを取り戻した筈の我が心を揺るがすことになったのが、大島渚監督との出遭いだった。この人達も人生の岐路となったであろう、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」の映画ロケの手伝いがきっかけとなって一念発起。今度こそはと腹を括って、無謀にも妻子共々2度目の上京を敢行した。

 大島監督との2本の映画製作は、人生で初めて「苦労」を実感する体験だった。昭和四十三年、大島監督のプロダクション「創造社」での3本めの作品は、映画監督デビュー十周年の記念映画だった。当時「当たり屋」といわれ、親子4人の一家が全国を股に架け、長男の子供を車に、故意に当てて事故を装い、旅の途中だからと現金で慰謝料を騙し取るという手口の犯行を重ねていた事件が大きな社会問題となった。この事件を題材にした映画「少年」は、アートシアターギルドという配給会社と製作費を折半で造る「一千万映画」の話題作となったのだが、貧乏映画故の苦肉の策で、一家が旅した足取りを追って全国オールロケ撮影をベースに、少年役は孤児院から、弟の幼児は3才の我が息子をボランティア出演させたものだから、妻が付き人で男の職場を覗かれるという三重苦の仕事になった。渡辺文雄・小山明子のベテラン俳優に二人の子供、制作スタッフ十一人を合わせ総勢16名のロケ旅となった。西日本への第一次ロケは、秋のつるべ落としという、陽の落ちる速さにカメラの露出がついてゆけず、撮り直しに東京から四国は高知まで戻ったというアクシデントに見舞われたり、嵐で、瀬戸内海を渡る船が欠航、一夜の足止めを喰ったがそれでも順調なほうだった。島根から城崎と回って第一次ロケが終了。


山は山のままに 〜「ずく」があれば幸せ〜

南安曇郡堀金村・36歳女性

 大学を卒業して数年。京都・鴨川のいつものデートから、私の「信州」は始まる。

 「あのなあ、信州の会社に就職しようか、思うねん。」
彼はぼそり、と言う。

 「へえ、ええんちゃう?(お腹空いたなあ。はよ晩御飯食べに行こ。)」
「関西におっても両方の親の干渉が煩わし、やろ。僕らには僕らの暮らしがあるんやし。土地も安いし、すぐにはそら無理やけど、家かて建てられるやろ。涼しくて、水もおいしいし、信州はいいとこやで。」
「そやね(なに食べよっかなあ)。」

 その日、帰宅してお風呂で頭を洗いながら彼の言葉を思い出し、思わず立ち上がってしまった。
なに?信州?僕らの暮らし?家を建てる?

 もしかして、あれはプロポーズやったんかあっ。付き合って五年、いつか結婚するとは思てたけど、あんな大雑把な会話がプロポーズやなんて。もっとロマンチックなん想像してたのに。

 信州て、そもそも何県やったっけ。お風呂上りに慌てて地図を引っ張り出す。長野県。箱根の関よりも向こうは縁のない土地、と思っていたが、それは東海道の話。こっちは中山道やないの。すべて山の中という木曽路の向こう。
両親も結婚には反対しないが、「何が悲しうて雪かきせなんようなトコに行くの」という。そうやねん。私もそう思う。でももう彼の就職は決まってしまったのだ。ここで断ったら二階に上げといてハシゴ外すようなものだろう。結婚して信州に住む。もう決めたのだ。

 結婚準備のため、はじめて信州に来たときの心細さと言ったら。名古屋から中央線で松本へ、この電車は何でこんな山の中に突っ込んでいくのだ。行けども行けども山の中ではないか。「こんな山奥にも、人は住んだはるんやわ」。ちょっとした感動、だった。

 結婚したのは平成4年の7月。信州での暮らしが始まり、感動はさらに続く。


山と川のある街へ 信州へIターン、そして

上田市・59歳男性

 私は1975年(昭和50年)3月、妻子3人と共に、東京からここ上田に住み着いた。その1年前、長女四歳、長男が生まれて間もなく、東京で「光化学スモッグ」と呼ばれた大気汚染が発生、マスコミでも大きく報道された。その第1号地点が練馬区上石神井、新青梅街道交差点周辺だ。私が住んでいた所のすぐ近くだった。周辺には畑を持つ農家も散在し、公園、緑も多い地域だったが、朝顔の葉を見ると、やはり白い斑点がはっきりと確認できた。妻と話し合いの末、2人の子育ては「脱東京で」と決めた。

 私は秋田県横手市の外れ、雄物川に注ぐ2つの支流に程近い田舎で育った。還暦を迎える今でも、川遊び、川魚捕りに夢中だった子供の頃のことが鮮明に思い出される。川育ちだったと思う。妻は妙高山の懐で育った。2人の子供は「山と川のある街で育てよう」ということにした。
 
 引っ越し先の第一候補は、妻の要望どおりに、長野の信越線地域ということになった。しかし、当時の私は長野県の知識がほとんどなく、来たことがある所は、八ヶ岳山麓、小諸だけであった。

 1974年(昭和49年)、私は引っ越し先探しの為、1人で度々長野へ来たが、その頃、松代群発地震が全国的なニュースとなり、秋田の父親に「松代は駄目だよ」と忠告されたこともあった。

 3度目に長野へ来た時、屋代駅で降りた。駅前周辺をぶらぶらした後、千曲川方面へ。途中の不動産屋で紹介された空き家は、聖高原へ向かう県道から200メートルほど入った山間に、ひっそりと1軒だけ建っていた。しかし、1ヵ月後、この家を見た妻と妻の母親は、幼い子供2人を育てるには不便過ぎる所だと猛反対、結局、ここはやめることにした。

 翌年の1月中旬、妻の実家からの帰り、五歳の長女を連れて、上田駅へ途中下車した。それまで、「上田」という名は全く知らなかったが、市内をあの千曲川が流れていることは、地図を見て分かっていた。駅前、パール通りの不動産屋に寄った後、千曲川の方へ。専売公社前の不動産屋の物件に、良さそうな一戸建の借家があった。千曲川には200メートルほどで、ほどよい高さの山も近い。住環境は良さそうだし、交通の便も悪くはなさそうだ。1キロ以内に幹線道路があり、車の通行量も多いから、東京での光化学スモッグのことが脳裏をかすめたが、それは素人判断でクリアした。


信州はおもしろい

大町市・61歳男性

 四季の輝きがダイナミックな所に魅力を感じる私たちは33年住み慣れた藤沢市から大町市を選びました。

 湘南の青い海と富士箱根を遠く望む絶好の景観での生活は家族四人にとって幸せなものでした。しかし平成五年のバブル崩壊からこれまで持ちこたえていた会社が赤字大幅人員整理に落ち込んでしまいました。年齢が50歳を越え勤続33年の私は第2の人生を自ら選ぶことにしました。この年には二人の娘たちはすでにナースを天職として独立しておりましたし、妻は1度しかない人生なんだからやりたいことがあればやりましょう、とすぐ賛成してくれました。

 北アルプスの街小谷、白馬、大町にはスキーや登山で何回も通ってその美しい景色の中でいつか暮らしたいものだと夢みておりました。早速小谷村、白馬村の役場で情報をもらったり、不動産業者に当たったりして物件探しをはじめました。条件はアルプスが直接見えること、周りが広々として自然がいっぱいあること、工場や煙突がまったく見えないことの3つです。2ヶ月ほど毎週通ってついに見つけました。仁科三湖のほとりで国道148号線沿いにある畑で約300坪、南西の空に北アルプスの鹿島槍ヶ岳の双耳峰が聳えて文句なし3つの条件がそろっていたのです。藤沢の住宅を処分して白馬村のアパートに移住、知人も友人もまったくない所に来て楽しく生活していくにはまずたくさんの人と会う機会のある仕事を選ぶことから始めようと、田舎料理の小さなお店をやることに決めました。建物は山小屋ふうの可愛いもの、デザインは一度見たら忘れられないほどインパクトのあるものにしようと私たちが今まで趣味で集めていた「ふくろう」の顔、それも目の前に見える鹿島槍の双耳峰を模して「みみずく」にきめて目と口は窓として輪郭は白と黒のペイントの塗り分けとしました。施工を北野建設に依頼したところ小さい仕事ながら今まで手がけたことのないおもしろい工事だと快く受けてくれました。水道のない地区なので井戸を50メートル掘って水脈に当たり十分な水量と水質も検査してもらったら飲料可との結果でほっと一安心しました。工事期間は6ヶ月の予定でしたが1ヶ月遅れで全て完成したのは初雪の来る11月の初めでした。


信州松本市に住んでみて

松本市・67歳男性

 信州の美しい自然環境に魅せられ、冬の降雪も積雪も苦労する程の量ではないと聞き、8年程前に松本市へIターンを致しました。

 以前、主張や旅行等で訪れていた折に感じていた自然の素晴らしさは、住んでからもその通りで、四季を通じて見せるその穏やかな移ろいの美しさは、厳しく熾烈な企業の生存競争の日々に明け暮れしてきたこの身を、心身共に優しく癒してくれるものでありました。

 機会をみては近隣の山々や温泉、そして旧跡・遺跡等を訪ねては心洗われ、その土地を愛し、その土地に触れて生きた人々の話に感動をして回りました。

 そして、嘗て企業に在りし折の、売上や利益の額ばかりを追っていた己の姿を顧みて、せめて残る人生だけは自分の為に生きたいものと、今後の仕事の依頼も断り、在京していては仕事一途から逃れられないと、離れて来た選択は正解だったことを沁み沁み思ったものでした。

 自然の美しさに惚れたが余り、自分の息子の結婚式を挙げるのにも、式場や参席者の交通の便が良いからとして必ずしも東京でなければならぬことはないと主張し、両家の参席者全員を松本の温泉宿へご招待し、アルプスの峰々を眺めながらの温泉付の宴を喜んで頂く事をもいたしました。

 そんな風に、自分の今後の半生を終生遇することになるかも知れない信州に贔屓して、松本や安曇野を同僚や後輩達に宣伝してきた私でしたが、ここ3、4年は全く逆に「松本へは住まない方が良い」とむしろIターン・Uターン希望者へ反対意見を言うようになりました。

 私が信州を(特に松本に住む身として、必然的に松本市中心の生活感を述べるが)推せなくなった理由は、生活のしにくさ、特に行政の悪さが理由です。


人間万事塞翁が馬

南安曇郡穂高町・68歳男性

 それは昭和30年8月初旬のことだった。新宿から夜行に乗り、中央線の韮崎駅に降り立ったのは翌朝午前4時半頃だったろうか。駅前にはすでに南アルプスの甲斐駒に向かう登山者十人ばかりが、焚き火を囲んで暖をとっているところだった。ここでは、早朝はすでに秋の気配を感じさせる陽気であり、東京では考えられない冷気が漂っていた。

 まもなくバスで白州町の登山口へと向かう。しばらく車中にあって、ふと車窓から南西の方向に目をこらすと、前衛の山の稜線の向こうに、モルゲンロートにまばゆいばかりに輝く甲斐駒の岩峰がその姿を天空に屹立させている光景を見ることができた。初めて見る3000メートル級の侵しがたい崇高ともいえる山容を目にしたとき、わたしは全身を電流で打たれたような感動を覚えたのを生涯忘れることができない・・・。

 それから47年。学生生活、就職、結婚・・・とあったわけですが、常に山への思いは絶ちがたく、いつの日か山と一体になった生活を夢見て暮らしてきた。ところが、その夢は全く予想もしないことがキッカケとなって実現していくことになるのだ。

 勤めていた会社が新たにソフト会社を立ち上げることになり、そこの経理責任者として送り込まれた。40代初めの頃だった。もともとはビデオテープや電子部品を製造販売するメーカーだけに、ソフト会社のノウハウは殆ど無く、新たな会計制度をつくりあげるのにも大変苦労した覚えがある。そればかりか音楽事業にも参入するところとなって、湯水のように使われる契約金や制作費の圧迫もあって業績が振るわず、赤字が累積していった。子会社の経理は、出納から税務申告までのそれこそ会計全般を指揮監督し、加えて新規事業の見積損益や会社全体の事業計画作成など、全てを担当することになるため仕事のやり甲斐は充分にあったが、一方では業績悪化によるストレスが次第に増幅していった。

 そして、開業6年目の夏になって日本橋の本社に呼び出され、経営責任をとるかたちで親会社の名古屋営業所に転勤を命じられたのだ。覚悟はしていたものの、実際に降格人事に遭遇したときは人格まで否定された気がして、大きなショックを受けたものだ。転勤の準備に赴いた名古屋のビジネスホテルで寝泊りするうちに、本気で退職を考えたりもした。しかし、子どもの養育や生活のことを考えるとすぐにそうすることもできず、しばらくはもんもんと過ごすことになる。


信州フラグメント通信2003

北安曇郡松川町・54歳男性

 蠢く。春には間に合わなかったけれど、虫2匹ならぬ親子3人、安曇野に越して来ました。こんな書き出しで始まる転居通知を出して10年になる。

 今でも関西弁が抜けない僕に、どうしてこんなに寒い所に来たのかとよく尋ねられる。うまく説明できないので、田舎暮らしに憧れてと答えるようにしている。実際この安曇野で暮らそうと思ったのも、友人が家探しをするので、一緒に行かないかと誘われ、観光気分で出かけたのが、こんな所で暮らせるならと、逆に僕達家族が家探しを始めたという、単純でいい加減な動機からだ。

 20代の頃、信州には山登りに何回か来て漠とした憧れもあった。小谷村にある山村留学の指導員の募集に、まだ結婚していなかった家内と2人で出かけたことがある。彼女は1人でも行きたかったようだが、僕は子供の指導員としてうまくやっていく自信がなく断念した。その1年後、僕達は結婚し長男の悠が産まれた。どちらが先か怪しいのだが。

 2年後、母が脳梗塞で倒れ入院したが、3ヶ月後病院から退院を迫られ、兄が両親と同居するために家を新築するあいだ、両親と一緒に暮らした。一戸建ての家を借り、重度の障害者施設に勤めていた家内は、看護休暇をもらい看病してくれた。その後両親が兄夫婦と同居すると、10万の家賃が重荷で安い所に越したかったが、そのまま落ち着いてしまっていた。老いて2人暮しをしていた両親が兄夫婦と同居したことで、僕の中で感じていた親の重圧から解放された気分もあった。それは誰にでもある家族の事情というものだ。

 家内は施設の仕事だったので、夜勤や深夜勤があり、週の内2日程父子家庭になった。そんな日はクロス職人だった僕が保育園の送り迎えや育児らしきことをした。施設での仕事は肉体的にもきつく、仕事と家事の両立に家内はとても疲れていた。彼女の性格から、仕事への思いもあり、何かきっかけがなければ辞めれないだろうと思った。
息子の悠は四歳になっていた。それは息子の成長にとっても、子育てする僕達夫婦にとっても、貴重なかけがえのない時なのではと強く感じていた。多少経済的に苦しくなっても、時間に追われないゆっくりした中で、家族の生活を創りたいという願いもあった。


信州に生きる

大町市・35歳男性

 旅から帰って駅前に立つ。今夜は星空が美しい。静まった夜道を家路へと急ぎながら、ふと上を見上げて立ち止まると山が見えた。白く雪を頂くその峰は、夜空の中で妖しく光り、どこか荘厳ささえ感じさせた。そして、その時、思ったのだ。
「ああ、家に帰って来たんだ。」と。

 ここ大町に越して来て5年、いつも見慣れた山、爺ヶ岳。それはいつしかわたしの心に入りこみ、今ではわたしの心象風景となっていた。そして、わたしは初めて自分が信州人になったような気がした。

 わたしが最初に信州に来るきっかけとなったのは、1枚の写真だった。6年も前のことである。それは、乗鞍高原から見た朝焼けの雲海。山々を覆いつくすように広がる雲海がうすく赤い朱に染まり、折り重なるように連なる低き山は孤高な紫色になって、美しいハーモニーを奏でていた。この写真を見た時、わたしは素直に「ここに行ってみたい」と思った。もちろん、そんな光景がいつも見られるものでないことは後で知った。そしてその後すぐ、北アルプスの山を知った。

 「日本にこんなところがあるなんて。」

 それが山に登った感想だった。見渡す限りの大自然。人工物などひとつもない。あるのはただ太古からの営み。空と雲と岩と森と。そしてその時、決心したのだ。
いつか信州に住もうと。

 当時、わたしは関西に住んでいた。生まれも関西、育ちも関西。信州につてなどまったくなかった。親戚もいなければ、勤めている会社の支店もない。つまり、まったくいちからの出発である。当然、生活できなければ話にならないので、まずは仕事探しとなったのだが、見つからない。半年探しても見つからなかった。まあ、当然といえば当然だ。なにしろ頼りといえば、1冊の就職雑誌だけだったのだから。
しかし、ある時、転機が訪れた。


田舎暮らしのメリット・デメリット

飯山市・33歳男性

 旅から帰って駅前に立つ。今夜は星空が美しい。静まった夜道を家路へと急ぎながら、ふと上を見上げて立ち止まると山が見えた。白く雪を頂くその峰は、夜空の中で妖しく光り、どこか荘厳ささえ感じさせた。そして、その時、思ったのだ。
「ああ、家に帰って来たんだ。」と。

 ここ大町に越して来て5年、いつも見慣れた山、爺ヶ岳。それはいつしかわたしの心に入りこみ、今ではわたしの心象風景となっていた。そして、わたしは初めて自分が信州人になったような気がした。

 わたしが最初に信州に来るきっかけとなったのは、1枚の写真だった。6年も前のことである。それは、乗鞍高原から見た朝焼けの雲海。山々を覆いつくすように広がる雲海がうすく赤い朱に染まり、折り重なるように連なる低き山は孤高な紫色になって、美しいハーモニーを奏でていた。この写真を見た時、わたしは素直に「ここに行ってみたい」と思った。もちろん、そんな光景がいつも見られるものでないことは後で知った。そしてその後すぐ、北アルプスの山を知った。

 「日本にこんなところがあるなんて。」

 それが山に登った感想だった。見渡す限りの大自然。人工物などひとつもない。あるのはただ太古からの営み。空と雲と岩と森と。そしてその時、決心したのだ。
いつか信州に住もうと。

 当時、わたしは関西に住んでいた。生まれも関西、育ちも関西。信州につてなどまったくなかった。親戚もいなければ、勤めている会社の支店もない。つまり、まったくいちからの出発である。当然、生活できなければ話にならないので、まずは仕事探しとなったのだが、見つからない。半年探しても見つからなかった。まあ、当然といえば当然だ。なにしろ頼りといえば、1冊の就職雑誌だけだったのだから。
しかし、ある時、転機が訪れた。


小谷にたって

北安曇郡小谷村・35歳男性

 「今年も、除雪の季節が来ましたなあ。」そんな会話が日常になって、冬を迎えている。

 私が長野県小谷村にやって来たのは、平成7年の10月。小谷村を襲った集中豪雨、「7・11災害」の年である。大変失礼な話だが小谷村にIターンすることになるまで、小谷村がどこにあるのか全く知らなかった。ましてや小谷と書いて「オタリ」と読むとは思いもしなかった。

 私が小谷村に来ることになったのは、「さらば東京。IターンUターン特集」というリクルート雑誌がきっかけだった。その当時私は、大手スーパーに勤めていて、朝早くから夜遅くまで働いていた。前の年に生まれた長女と遊ぶ時間というか、子供と一緒にいる時間が欲しくて、軽い気持ちで妻に、「会社、やめてもいい?」と聞いてみるとあっさり、「いいよ」と返ってきた。少しびっくりしたが、妻の了承を得て踏ん切りがつき、会社を辞める決断をしたのが6月の初め頃だった。

 上司に話をして、退職日が8月15日に決まった。後任者への引継ぎ、残務処理等があり、忙しく働きながら、次の就職先を模索していた。そんな7月の初めに、通勤途中の駅の売店で目に飛び込んできたのがそのリクルート雑誌だった。

 「さらば東京」。別に都会が嫌いだったわけではなく、ましてや現在住んでいる小谷に行こうなんて考えもしていなかったのに、「さらば東京」を見たとき、何故か地方で暮らそうと思ってしまった。そう思った時から真剣に地方での転職を考え出し、その雑誌を読み始めた。


多くの人に支えられて

塩尻市・48歳女性

 昭和63年春、私たちは夫の仕事の都合で、それまでいた新潟(寺泊)から塩尻市に引っ越してきました。新潟では夫の母と同居していたので、私はその家を出られるだけで、ワクワクしていました。塩尻市での生活が、とても明るい未来に思えたのです。

 引っ越しの翌日、荷物の整理も中途半端のまま、近くのスーパーに買い物に行きました。出入り口近くで、主婦らしい人が2人、時々笑いながら立ち話をしています。(いつかは私にも、あんな風に話せる友人ができるのかしら)と思いながら、買い物をすませました。家族以外誰とも言葉を交わさないで、時間が過ぎていきます。

 30代半ばで始まった信州での暮らし。夫は一般的に言う仕事人間です。日曜日でも会社に行かないと、落ちつかないと言います。当時小学校5年生の長男も、3度目の転校で友人を作るコツを身に付けていました。それぞれ、この土地になじみ始めています。

 専業主婦の私は、夫の実家にいた頃に比べると、自由時間が増えました。義母を気にしてあてもない外出を、しなくてもいいのです。好きな本を心いくまで読めました。この頃から、自分と向き合うことが多くなり、それは決して嫌な時間ではありませんでした。

 それから数ヶ月後、私は2人目の子供を妊娠してしまいました。長男はすでに小学校高学年です。ほとんど手がかからなくなっていたので、また一からの子育てに、すごく戸惑いました。「これから、自分のことが出来ると思ったのに…」そんな思いが、正直な気持ちでした。夫は相変わらず、日曜日でも会社にでかけています。「部下は俺の宝だ」ときっぱり言う夫。彼の頭の中には、会社のことしかないようです。


安曇野からの便り

南安曇郡穂高町・67歳男性

 拝復厳寒の時候ですが、御健勝にお過ごしとのお便り拝見、何よりと存じます。ところで、お尋ねの安曇野の生活ですが、一言で言えば「なかなかに味のある生活だ」とお答えすることができます。

 「味のない生活」に気付いたのは、システムに組み込まれた東京での生活に終わりが近づいた頃、ここでこのまま人生の終焉を迎えるには何か足りないものがある、何かしら空虚なものを感じると思いはじめた頃からです。

 羊でも飼育して、農業の真似事でもしながら自然に抱かれた生活、などを夢にして、わずかな暇を作り北海道から沖縄まで旅をしてみたのですが、なかなか思う通りのものはありません。

 定年後の人生設計をしっかりと、などと言われますが、今の時代、日常の仕事も片手間でやれるようなものではなく、そんな毎日のなかで、趣味と実益が一致するような方々は別として、私の様な凡人には晩年の生活を明確に画くことなどできようなずもありません。

 月日の経つのは早いもので、まだ5年、あと3年などと考えているうちに、現役終了の鐘の鳴る始末、そんなとき、ふらりと新宿発の「あずさ」に乗った事でした。宿とか食事とかは瑣末な事なので省きますが、松本から乗った大糸線沿いの風景に「満足」を、あらためて感じたことは事実です。

 穂高で下車、早朝の北アルプスに当たる光の束、昼、高台から望む安曇野の風景、夕刻、逆光気味のなかで睡そうに流れる嶺線。

 八ヶ岳までは東京圏の匂いもしますが、塩尻峠を越えると信濃の風土が濃厚に迫ってくる。

 「この景色が自分のものになるなら」と思ったことでした。
勿論、これは感覚の問題ですから、あなたにこの気持ちを共有しろなどとは言いません。ただ、私はそう思った、と言うだけの事です。これに本物の温泉が付いている……と。導入(イントロ)としては、こんなところです。


家を持つこと、それがIターンした理由

南安曇郡梓川村・51歳男性

 私がそもそも「信州で暮らしたい」と考えるようになったのは、そこに広大なアルプスの山々があり、東京へも日帰りで行くことができる、ということだったようです。しかし信州に限らずどこか田舎で暮らしたい、と思い始めたの今からさかのぼること、20年も前のことのように思います。

 そのきっかけは結婚して数年経ったときのある日のこと、サントリー協賛による日本野鳥の会の新聞広告を目にしたときだったようです。早速入会手続きをしたのですが、なぜ野鳥なのか特にこだわりがあったのではありませんでした。生き物を通して自然と共生する必要性を、新聞のキャッチコピーから感じたのだと思います。

 思えば、子供のころから自然はわりと好きで、特に植物はなぜか大好きだったのです。友達に昆虫の好きなのがいて、彼はファーブルを目指し、私は牧野富太郎先生に憧れて、2人してよく林の中で植物や昆虫採集をしていました。その頃私が住んでいた武蔵野にはまだまだ自然が多く、家のそばにあった川の源流を目指して5日ほどかけて探検したり、その頃工事中だった浄水場の広大な水たまりでイカダごっこをしたり、近くの林で隠れ家を造り泥団子での戦争ごっこなど、まだまだ自然の中で遊んだ記憶がよみがえってきます。大人になってからの都会生活では、そのように自然に親しむことが感じられなくなっていたことからの「野鳥の会」入会だったかもしれません。

 考えてみれば山登りもコースタイムよりどれくらい速く登れたか、を競うように登っていました。奥多摩の雲取山も三峰口から登り始めて、鴨沢に午後3時には着いているという、そんなことをしていました。山頂からの風景は見るものの、当然歩いている(走っている?)脇の花や虫、あるいは野鳥などに目がいくことはありませんでした。

 さて野鳥の会入会後すぐに双眼鏡を購入し、近くのスズメやヒヨドリ、カワラヒワなどの観察を始めました。始めの頃は双眼鏡の明るさが人の目の20倍以上もあることから、薄暗い夕方でも色合いのくっきりした姿に驚きの連続でした。そして初めて双眼鏡を山に持っていったのが北八ケ岳でした。キャンプ場の白駒池付近で木々の中で騒ぐ鳥は「何かな」とのぞいたのです。もう夕方で肉眼では形が分かる程度でしたが、それは10羽程度のカケスでした。カケスのほんのり赤みがかった体に羽の青が鮮明で、とても感激しました。そのときの山登りでは天狗岳まで行きましたが、オコジョやハヤブサにまで遭遇するという楽しい山行でした。


夢だったIターン

東筑摩郡四賀村・39歳女性

 平成14年3月31日、その日、私は結婚式を挙げていた。昨年の5月18日に信州へIターンしたばかり。まだ10ヶ月ちょっと。もちろん結婚の予定などなかった。

 私が生まれ育ったのは、愛知県の津島市というところ。田んぼや畑が点在する田舎の町だった。そして一人暮らしをするようになってからは、名古屋市に住んだ。

 信州へ住みたいという夢を最初に抱いたのは、まだ若い20歳そこそこの時。黒姫高原にあるペンションで働いた時だった。ここで私は仕事を手伝いながら、自然の中で生活する素晴らしさを身をもって体験した。

 黒姫高原は信州でも北の方、新潟県との県境近くにあり、その頃はまだ知る人も少く、風光明媚な場所だった。ただ、あれから20年近く過ぎた今では、俗化されて私が住みたいと思う場所ではなくなっていた。それに加えて冬には雪がたくさん降るのも難点だった。

 いつかは信州に住みたいと考えながらも、その夢は実行に移せず、時はどんどん流れていった。

 その間に私は、風景や花の写真を撮ることを趣味とし、パソコンでインターネットもするようになっていた。

 ある日、インターネットで新・信州人倶楽部のホームページをみつけた。私はすぐ入会することに決めた。「ここに入れば夢が実現するかもしれない・・・」そんな気持ちになったのだった。

 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。会員になったものの、会報を送ってもらうだけの日々が過ぎていった。

 倶楽部では、2ヶ月に1度、例会があるのだが、なかなか参加することができなかった。

 そんな中でも私は、Iターン先の候補地を考えていた。街中で生活してきた私は、田舎暮らしにあこがれているとは言っても、まるっきり周りに何もないところでは生活できないような気がした。雪道は運転できないので、雪がたくさん降る場所も遠慮したい。


Iターン私の場合

下伊那郡阿南町・53歳女性

 私が長野県にIターンしたのは、今から16年前。それ以前は、新宿の高層ビルの中で仕事をしていた。高層ビルにも四季は巡る。冬の晴れた日の夕方、美しいシルエットになった富士山に、赤い夕日が燃えて沈むのを見ていたある日、突然、「僕と一緒に田舎へ言って暮らそう」という男が現れた。

 「人間は農業をして暮らすのが一番まっとうな暮らしである。農業は1000年先にもある暮らしです。NTTやトヨタですら1000年後まであるとは言えません。人類が続く限り、人間は米を作り、野菜を作って生きてゆくのであり、固形燃料を口の中に放り込むような暮らしには絶対ならないんです。自分の暮らしの全体を自分で作るのが最も良い暮らしなのです。」男にそう言われると、そうかもしれないと思ってしまった。でも、このまま居れば企業年金も貰らえるし、暮らしに困る事もないのに・・・「自然も人間も変わりつつある時こそ美しいのです。僕と一緒に美しい暮らしをしましょう。」

 男は、暮しの全体を自分で作れるような体力も技術もないことを脇においたまま、理想を言っているにすぎなかったのであるが、理想のようなものを、長い人生に一度ぐらい持っても良いと思ってしまった。親兄弟、知人、会社の役員などからも「やめとけ」との忠告を受けた。いまから思い返し、冷静に考えれば止めておくのが妥当であった。その男は「藁一本の革命」という本にかぶれた男で、何もしないで米を採り、なにもしないで野菜を採るつもりであったらしい。

 翌年の春、その男と私は、北安曇郡小谷村中土という雪の深い所で世帯を持った。5月の中土は緑の深い、庭にまでコゴミや山うどなどの山菜が溢れる所でした。最初の年、男は田植えの真似事、畑の真似事をし、失業保険で食べていました。わずかばかりの畑にトウモロコシやカボチャの種を播き、芽が出たといっては喜び、花が咲いたといっては喜んでいました。

 男は蔓なしインゲンに支柱を立て、どうして蔓が出ないのかといっては考え込み、胡瓜にも地這いがあることも知らず、いやがる胡瓜を無理やり支柱に結わえていました。冬になると一晩に1メートルぐらい雪の降るところなので、冬になると雪をかくのが毎日の日課になりました。雪かきは重労働で、男はたちまち音を上げ、スノーダンプを押す手を止めて「雪の無いところへ行こう」と言い出しました。


自然回帰線〜ひかる森・星・川

東筑摩郡波田町・33歳女性

 窓の外を見ると丁度、雨が霙に変わろうとしている瞬間だった。今夜も又沢山の雪が降るのだろうな。明日の朝は注意して運転しないと。そんな事をボーッと考えつつ私はひたすら窓の外の様を眺めて居た。

 もう何回目の冬だろうか。

 東京から嫁いだばかりの時は、大雪で道路が凍結した日の朝などおっかなびっくりで運転し、スリップなんて車も多々有ったのだが、ここ数年はそういう車も少ない。それだけを見ても私が信州での暮らしに慣れて来た事を物語っている。無理をせずにハンドルを流れのままにしておくとツルツル滑る道でも、そう恐くはない。流れのままに、これは人生にも似ている。流されるのではなく、しかし無理に逆らう事もなく、流れに沿って行く。私がここで生活する事になったのも、やはり自然の流れ故なのだろうか。
今から約10年前。私は東京世田谷の実家近くの不動産会社で賃貸部門を受け持っていた。

 ある日1人のお客様として彼はやって来た。今の私の主人である。何しろ注文が細かくやり辛い。それが第一印象だった。やれ駅から5分以内で、日当たりが良くバストイレ別、低価格…。ナイッ!とも言えず私は仕事、仕事と言い聞かせ物件を次々紹介して行った。

 そんな或る日主人から祭りの誘いがあった。聞くとかなり有名な麻布十番祭りだ。これが食事や映画の誘いなら100%の確率でお断りさせて頂いたと思うのだが、これが祭りと来たならば行かない訳にはいかない。三度のメシより祭り、祭りは私のふるさとなので断ってはいけないのだ。大げさではなく本当なのである。そうして祭りから始まったつき合いは結婚へと進展し、私は長年住み慣れた東京を離れ、未知の町、松本市の隣町である波田町での生活が始まった。

 しかし信州の地と全く縁が無かった訳でもない。実祖父は小諸市在住で日本画家をしており、今でも東京を行き来して居る。亡き実母も小諸で生まれ、小学校までは地元の学校に通って居た。そういう事も有り、小諸や軽井沢の方へはいつも足を伸ばして居た。だから主人よりプロポーズの言葉を受け、長男の嫁として信州に嫁ぐ事になった時もそれ程心配せずに居たのである。しかしながら父はよく許してくれたものだとつくづく思う。母は私が11歳の時にガンで他界しており、おまけに私は一人っ娘。普通なら反対するところをグッとこらえて快く送り出してくれた父には今でも本当に感謝している。正直言うと親不孝してしまったという気持ちは常に心の中に有る。父を1人にしてしまったという事。病気の時はどうするのか。

 そういう事を考える時、東京との距離の長さを感じる。交通の便が良くなり近くなったと言われたとしても、だ。子供の親になり、上の子が小学校へ入った今、なかなか帰るのもままならず、「ああなんで信州来ちゃったかな」とたまに後悔の念が頭をかすめてしまう。


いつかは北へ

松本市・59歳女性

 今から20年余り前の3月家族旅行で富山へ行きました。立山連峰が見事な白銀でおおわれその美しさは南国育ちの私たち夫婦に強烈な印象を与えました。
その感動がいつかは北へ住みたいという小さな小さな夢の芽の種となり心のずーっと奥の奥にこぼれて残ったのです。

 その頃の私は20名余りの決して多くないメンバーと共にオペラ運動に明け暮れていました。約半年間はみっちり音楽稽古、あとの半年のほとんどの土、日、祭日は立稽古に追われ他にチケットの販売、ポスター、ちらしの制作、練習場所の確保、等々1年にたった1度のオペラ公演のためにモーレツなエネルギーを使っていたのです。
十五年余り休みなく続けました。

 「ヘンゼルとグレーテル」「魔笛」「コシ・ファントゥッテ」「フィガロの結婚」「アイーダ」……主役を演じつつ若手の指導をしながらのこの15年間は大変でしたがものすごく中身の濃い充実した年月でした。

 1988年6月23日「マダム・バタフライ」(ハイライト)の幕が下り拍手の中カーテンコールを受けながら「これがわがオペラ人生の花道や。」よしピリオドを打とう。
突然の決断でした。それまではオペラ「命」の私でしたので回りの誰も本気にしてくれませんでしたが固い気持ちは変わらずスッパリ幕を引きました。

 恐ろしい程の重圧感と責任感から解放され、15年間押しつぶされてペッチャンコになっていた自由が穏やかな時間とそして「いつかは北へ」の想いと共にもどって来たのです。
平成4年夏、それまでずっと続けていた年1度の旅先は信州は駒ヶ根の千畳敷カールと穂高温泉郷1泊2日。お花畑のはずのカールは一面の残雪でびっくりやらガッカリやら。松本城の見学やあづみ野では、はじめてのブルーベリーとりを楽しみました。

 たったそれだけの旅だったのにフッと「ここでもええんとちがう?」と思ったのです。もちろん主人も同じでした。引き寄せられるように11月にもう一度松本を見に来ました。目には見えない大きな力が信州へ信州へと押しまくりあれよあれよという間に明けて平成5年の9月には松本に引っ越していたというわけです。いったいあの力は何だったのか。不思議です。とにかく信じられない神がかりなうねりでした。


普通の主婦のIターン

上水内郡信濃町・37歳女性

 20数年住んできた東京から長野に来たのが約8年前。
きっかけは、パパが読んだ1冊の本。

 その本には、いかに楽をして畑で野菜を作るかが書かれていた。といってもいまだにその本を私は、読んだことがないので内容まではよく知らない…。
そのころ、結婚して約3年。東京大田区で、姑とパパ、息子(当時2歳)と私の4人暮らし。
家は、古かったけれど一応持ち家。

 このままズーットここに住むのかな〜と思っていた私のIターンの始まりがその本だった。影響されやすいパパは、買って来た野菜の種を講演や多摩川の河原で2歳の長男と一緒に散歩へ行くたびに蒔いてきた。数日して野菜の芽が出ているとすごーく喜んで帰ってきて毎日のように公園や河原に通った…。

 それからさらに数日、いつもならその野菜の芽がどうなったか聞いてもいないのに話すパパが、なんだかしょんぼり…。

 どうしたのかと聞くと「全部刈られちゃった…」そりゃー公園や河原の管理の人だって草が伸びてくれば草くらい刈るよな〜と私は思ったけどパパにはかわいそうでいえなかった(笑)

 そのあとは、草刈がないような所を狙って蒔いていた。パパはその頃からどんどんと田舎暮らしへの思いが募っていったのかもしれない。

 その翌年の正月、知人の家へ年始の挨拶へ出かけた。その時にその家のお母さんが趣味でやっている家庭菜園で作ったという私の大嫌いな茄子がテーブルに出された。
「おいしいわよ〜」という言葉に仕方ないか…という気持ちで手を伸ばした。

 すると、本当においしい!大嫌いな茄子が甘い!料理がうまいというのもあるだろうけれど本当においしい。この時に私も自分で食べる野菜は自分で作りたいな〜と思い出した。
それから、我家のIターン計画が一気に加速した。

 東京駅の各県の案内所へ出かけたりIターンフェアーに出かけたり就職情報誌も数多く購入した。

 Iターンの就職情報誌に長野の車の板金工場が載っていた。それを見て私は、びびっと来た!パパは早速履歴書を送付。しかし同じ車関係の仕事をしていたパパだが、修理と板金では、やっぱり違うのか不採用の手紙。


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